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高瀬将嗣(1957~2020)

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高瀬 将嗣(たかせ まさつぐ)

殺陣師
1957年(昭和32年)〜2020年(令和2年)

1957年(昭和32年)、殺陣師・高瀬将敏の長男として、東京都に生まれる。国士舘大学在学中よりアクション系の俳優として活動し、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』『西部警察』に出演。大学4年のときに刑事ドラマ『特捜最前線』で父の助手として現場に入る 。1979年(昭和54年)、国士舘大学文学部を卒業。企業内定をもらっていたが、父親の体調が悪化したことにより、父の跡を継ぐ決意を固めアクション監督の道に進む。1980年(昭和55年)、日活ロマンポルノ作品『後から前から』『スケバンマフィア 恥辱』に俳優兼アクション指導として参加。1981年(昭和56年)、父より高瀬道場を継承。1983年(昭和58年)、映画『日本海大海戦 海ゆかば』を最後に俳優兼業をやめ、殺陣師専業となる。その後、映画『ビー・バップ・ハイスクール』やテレビドラマ『あぶない刑事』において、「体にサポーターを取り付け安全な部位には実際に当てる」というリアルファイトスタイルのアクションを確立。特撮番組『七星闘神ガイファード』でも、スーツアクションとしては異色のリアルファイトに挑戦した。そのほかにも『セーラー服と機関銃』、『すかんぴんウォーク』、『刑事貴族』シリーズ、『タンポポ』、『マルサの女』、『ミンボーの女』、『マルタイの女』、『今日から俺は』、『ナースのお仕事』、『ランチの女王』、『Aサインデイズ』、『WASABI』、『カムイ外伝』など、国内外問わず様々な作品を担当。殺陣師活動の一方、1990年(平成2年)には東映Vシネマ作品『極道ステーキ』で映画監督としてもデビュー。アクション作品はもとより、コメディ、任侠映画などのメガホンをとる。1996年(平成8年)には、映画『嗚呼!!花の応援団』で「インディーズ映画in横浜」のグランプリを受賞した。また、日本映画監督協会、日本シナリオ作家協会の会員で、脚本を手掛ける際は、霧分昇(きりわけ のぼる)名義で活動。日本俳優連合の常務理事も務めた。2001年(平成13年)、父から継承した高瀬道場で日本初の芸能殺陣流派として「芸道殺陣 波濤流」を創立。一般の人々にも門戸を開放し、「演技としてのアクション」の楽しさを全ての人々に広げている。また、主宰として後進の育成にも力を注ぎ、スタントマンや俳優など個人事業主の実演家への労災保険適用認定にも尽力した。2004年(平成16年)から映画専門誌『映画秘宝』にコラム「技斗番長・活劇与太郎行進曲」を連載。この他の著書に『技斗番長 活劇映画行進曲』(2011)、『基礎から始めるアクション 技斗・殺陣』(2013)がある。2010年(平成22年)6月、外務省招聘による「トルコにおける日本年」にて渡土。トルコの各都市で日本の文化である殺陣・アクションの演武を披露した。2018年(平成30年)11月、病院で診察を受けた際に胃癌が発見され、すでにステージIVの転移がみられた。家族以外の関係者には一切知らせず治療を続けるも、2020年(令和2年)5月25日午前0時、東京都内の自宅で死去。享年63。


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石原裕次郎や小林旭、宍戸錠、二谷英明らを指導し、高瀬道場を主宰した髙瀬将敏を父に持つ高瀬将嗣。自らも日本初の芸能殺陣流派として「芸道殺陣 波濤流」を発足させ、リアルファイトスタイルのアクションを確立させるなど、日本におけるアクションの歴史を塗り替えた。また、大人から子供まで楽しめる殺陣教室も開催し、多くの人材を育成した。強面ながら優しい人柄と指導で慕われた高瀬将嗣の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓は国産の一枚岩に自筆の「高瀬 芸道殺陣 波濤流 高瀬道場」とあり、墓石後ろに「芸道殺陣波濤流高瀬道場」と略歴が刻まれた墓誌が建つ。

by oku-taka | 2023-04-23 03:18 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)