人気ブログランキング | 話題のタグを見る

山口昌男(1931~2013)

山口昌男(1931~2013)_f0368298_03084826.jpg

山口 昌男(やまぐち まさお)

文化人類学者
1931年(昭和6年)〜2013年(平成25年)

1931年(昭和6年)、北海道美幌町に生まれる。幼い頃は家に閉じこもって本を読み、漫画ばかり描いていた。美幌尋常小学校、旧制網走中学校を経て、新制網走高校(現在の北海道網走南が丘高等学校)に進学。終戦後、戦争で閉鎖されていた図書館が解禁されると、山口は図書部員となり、本の世界に没頭する。1950年(昭和25年)、青山学院大学文学部第二部に入学し、1学期のみ通う。また、在学中に展覧会と古書店に頻繁に訪れる。1951年(昭和26年)、東京大学文学部に入学。在学中は展覧会や演奏会に通うのみならず、毎週日曜日に黒田清輝の甥で光風会の画家であった黒田頼綱にデッサンを学ぶ。また、東京大学駒場美術研究会で磯崎新らと交遊する。1955年(昭和30年)、坂本太郎の指導のもと、卒業論文「大江匡房―平安末期一貴族の意識」を提出して同国史学科を卒業。同年4月から麻布学園で日本史を教える。同学園での教え子に川本三郎、山下洋輔らがいた。やがて人類学に興味を持ち、1957年(昭和32年)に東京都立大学大学院に入学し、社会人類学を専攻。アフリカに関心を寄せ、1960年(昭和35年)に修士論文「アフリカ王権研究序説」を提出。同学大学院社会研究科社会人類学専攻修士課程を修了し、博士課程に進学した。同年、国際基督教大学の非常勤助手となる。1961年(昭和36年)、麻布学園を退職。1963年(昭和38年)10月、ナイジェリア国から招聘され、イバダン大学の社会学講師となる。ここで、部族の語り部たちが語る物語や神話・祭りのフィールドワーク調査を重ねた。1966年(昭和41年)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の講師となり、翌年には助教授に就任。通称「AA研」と呼ばれた同研究所を拠点に、膨大な量を興味の赴くまま読み解き、そこから生まれる閃きを基に新たな発見を見出す。 1969年(昭和44年)、「文化と狂気」を『中央公論』に、「道化の民族学」を『文学』に連載。また、「王権の象徴性」(『伝統と現代』)、「失われた世界の復権」(『現代人の思想 第15巻 未開と文明』解説)を執筆して注目される。1970年(昭和45年)、エチオピア調査を経て、パリ大学ナンテール分校の客員教授に就任。6月、「本の神話学」を『中央公論』に連載。1971年(昭和46年)、『アフリカの神話的世界』、『人類学的思考』、『本の神話学』を出版。同年9月、パリ高等研究院客員教授となり、レヴィ・ストロースのゼミで「ジュクン族の王権と二元的世界観」と題して発表する。1973年(昭和48年)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の教授に就任。また、「歴史・祝祭・神話」を『歴史と人物』に、「道化的世界」を『展望』に掲載。1974年(昭和49年)、『トリックスター』(ポール・ラディンほか著、晶文社)に解説「今日のトリックスター」を掲載。1977年(昭和52年)には、「文化における中心と周縁」を『世界』に掲載し、また『知の祝祭』を刊行する。これらの著作で述べられた「中心と周縁」理論や、道化に社会秩序をかく乱する役割を見出す「トリックスター論」などは、70年代以降の思想界を牽引するものとなり、山口と同じく青土社刊行の『現代思想』や『ユリイカ』で活躍し、構造主義や記号論を紹介した中村雄二郎とともに、西洋近代的知の体系への懐疑を促す大きな力となった。また、1975年(昭和50年)には「文化と両義性」を発表。後に浅田彰、中沢新一らによって本格化したいわゆるニューアカ(ニュー・アカデミズム)」ブームの下準備となった。1984年(昭和59年)、磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎と共に学術季刊誌『へるめす』の編集同人として10年間活躍した。1989年(平成元年)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の所長となる。1991年(平成3年)、福島県昭和村で解体が予定されていた小学校に「文化再学習センター」をオープン。蔵書4万冊の書庫を作るとともに、自然や景観が発するものを感受できる人間の育成教育の重要性を説いた(現在は札幌大学構内の山口文庫に引き継がれている)。 1992年(平成4年)、電通総研で「経営の精神文化史研究会」の発足に尽力。1994年(平成6年)、静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授および中央大学総合政策学部客員教授に就任。同年、フランスのパルム・アカデミック賞を受賞。 1995年(平成7年)、日本の歴史の中に埋もれた人々の軌跡を発掘・分析し、見過ごされてきたものの中に現代日本を活性化させる知恵があると示した『「挫折」の昭和史』『「敗者」の精神史』を刊行。翌年には『「敗者」の精神史』で大佛次郎賞を受賞した。以降、近代日本史の中で重要視されていなかった「旧幕臣」系または「趣味人」系の人々の、人的ネットワークを洗い出し検証する著作が多くなる。1997年(平成9年)に札幌大学文化学部長、1999年(平成11年)には同学長となった。2001年(平成13年)、脳梗塞を発症。その後も脳出血を数度発症し、2008年(平成20年)の脳出血で意識不明に陥る。その後意識は回復したものの、療養生活を余儀なくされた。2009年(平成21年)、瑞宝中綬章を受章。2011年(平成23年)、文化功労者に選出。2013年3月10日午前2時24分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。享年81。没後、正四位に叙された。


山口昌男(1931~2013)_f0368298_03084869.jpg

山口昌男(1931~2013)_f0368298_03084915.jpg


自由な感性に基づく文化理論を展開した山口昌男。フィールドワークを基に、世界秩序を解き明かした「中心と周縁理論」や、道化の役割を民俗学的な視点でとらえた「トリックスター論」で1970年代以降の思想界に大きな足跡を残した。その独自の理論は幅広い分野にも影響を与え、大江健三郎や坂本龍一といった文化人から、浅田彰や中沢新一らによる「ニューアカデミズム」など枚挙にいとまがない。次男が「父は仕事柄、基本的に旅の人で、家にいることが少なかった」と2017年の朝日新聞のインタビューで語ったように、何事にもとらわれることなく、知的好奇心の赴くままに行動。膨大な蔵書が研究室に山積するほど探求に探求を重ね、既成の枠を壊し続けた。それだけに、晩年は病に倒れて自由な活動ができなくなってしまったことは、さぞかし無念であったことだろう。山口昌男の墓は、東京都府中市の観音寺墓地にある。墓には「山口家之墓」とあり、墓誌はないが背面に建立者として名が刻む。戒名は「為興学院周縁昌道居士」。

by oku-taka | 2023-04-23 03:10 | 学者・教育家 | Comments(0)