人気ブログランキング | 話題のタグを見る

塩屋賢一(1921~2010)

塩屋賢一(1921~2010)_f0368298_02550328.jpg

塩屋 賢一(しおや けんいち)

アイメイト協会創設者
1921年(大正10年)〜2010年(平成22年)

1921年(大正10年)、長崎県五島列島北部の小値賀島に生まれる。1927年(昭和2年)には北海道上磯町(現在の北斗市)へ移住。子供の頃から大の犬好きで、狩猟が趣味だった父が猟犬として飼っていたポインターのチビと兄弟のように仲が良かった。1933年(昭和8年)、一家で上京し、赤羽に住む。家の近くには軍用犬養成所があり、学校から帰ると毎日のように軍用シェパード犬の訓練を金網越しに見物した。そして、訓練所から家に戻ると、その頃飼っていた雑種のケイスケに見てきたばかりの訓練と同じ方法で色々なことを教えた。その後、東京高等工芸専門学校(現在の東京工業大学)電気通信科に進学。1944年(昭和19年)に卒業するとすぐに徴兵され、佐世保の海兵団に入団。その後、館山の海軍砲術学校に移ったが、まもなく結核となり、同年11月に兵役免除となった。終戦後、ラジオなどを作る日本電子工業に就職。技師として働く一方、少年時代に憧れたシェパードの子犬の情報を求めて、神田駿河台にあった『帝国軍用犬協会』を訪問。豊島区雑司が谷のある愛犬家宅で折よくシェパードの子犬が生まれたという情報を得て、1週間ほどその愛犬家宅に通い、メスの子犬を300円で譲り受けた。その子犬は『アスター』と名づけられ、少年時代の夢を実現する形で、アスターにさまざまなことを教え込み、1948年(昭和23年)に『日本シェパード犬協会』主催の警察犬訓練試験競技会に出場。プロの訓練士に混じってただ一人のアマチュアながら、見事チャンピオンになった。さらに1週間後、別の競技会でもメスに与えられる最高の称号である「訓練ジーゲリン」(チャンピオン)に輝いた。同年の春、勤めていた会社が倒産。再就職先を探すが、結核が完治していなかったことから仕事は見つからず、競技会で審査委員長を務めていた相馬安雄に相談したところ「君は電気の技師では日本一にはなれないが、犬の訓練でなら日本一になれるかもしれない」と強く背中を押される。アスターの子犬が高く売れたこともあり、その資金を元手に犬の訓練を職業にすることを考え、すぐに公認訓練士の資格を取得。自宅の庭に犬小屋を建てて『塩屋愛犬学校』を設立した。スタート後、お金持ちの日本人やヤミで儲けた新興成金、駐留米軍のアメリカ人から依頼が舞い込み、評判も口コミで広がっていった。また、さまざまな人が犬の訓練を依頼しに訪問し、中でも名古屋から自分の愛犬「ヤール号」(オスのシェパード)を連れてきた来た飼い主は、なんとか競技会で優勝させたいと願っていたものの、他の訓練士に頼んでも見込みがないと考え、賢一を頼ってきた。賢一のもとで、ヤールは順調に力をつけていき、競技会の成績は1年目が11位、2年目が4位、そして3年目にとうとう、オスの日本チャンピオンにあたる「訓練ジーガー」を獲得した。
ヤールの実績によって、塩屋愛犬学校には断り切れないほどの依頼が殺到するようになり、賢一は一流の訓練士として名声を高めた。しかし、当時は犬の訓練やしつけにお金を出せるような人はごく少数だったことから、「一部の金持ちの道楽の片棒をかつぐような仕事なのではないか?」という思いに悩まされるようになる。悩み続けていたある日、日本シェパード犬協会の会報をめくっていると、「シェパードは盲導犬としても使える」という記事を目にする。その後、アメリカで初めて盲導犬を使用した人の体験記が出版され、この本をむさぼるように読んだ賢一は、盲導犬の訓練を手がけてみることを決意。アメリカなど欧米各国から盲導犬に関する資料を取り寄せて辞書を片手に読みあさり、その結果、盲導犬には「車道と歩道の境や曲がり角ではいったん止まる」「右 左などの合図で曲がる」「道路上や人間の頭の高さの障害物を避けて通る」などの専門的な能力が必要だと分かった。その後、具体的な訓練法として、アスターと共に手探りで訓練に取り組むことを決心。まず視覚障害者の世界を身をもって知るために目隠しをして生活を始め、何も見えない状態で外を歩き、盲導犬が何に注意をして行動し、人はどのように誘導すれば良いか、一つひとつ確認し、それらをアスターに教え込んでいった。1949年(昭和24年)、アスターの訓練を完成させ、さらに理想的な盲導犬を追求するために、アスターの子バルドに初めから盲導犬としての訓練を行った。その訓練は、バルドの子ナナへと引き継がれていった。1956年(昭和31年)、東京・大田区に住む外交官の河相達夫の家族から、戦時中の厳しい労働と栄養失調が原因で失明してしまった息子のために、息子がかわいがっているチャンピイというシェパード犬を盲導犬にして欲しいという依頼が舞い込む。チャンピイは教えたことをよく覚えてくれる一方で、放浪癖と他の犬とよく喧嘩をするという悪い癖があった。賢一は、それに対しては、叱ってやめさせるよりも愛情を注ぐことが大切だと考え、同じ部屋で生活を共にし、積極的にスキンシップをはかった。その結果、チャンピイは次第に落ち着いた性格になっていった。基本的な訓練を終えた後、賢一はチャンピイを騒音や人の往来などに慣れさせるため、毎日一緒に街を歩いた。数ヶ月の後、チャンピイは脇見をせずにまっすぐ歩けるようになった。その後、商店街を想定して空地に障害物を置き、それらを避けて歩いたり、頭上の障害物の前で止まったりする訓練をした。仕事の途中で粗相をしないように、出掛ける前に人の指示で排泄を済ませる「ワン・ツー」も覚えさせた。1957年(昭和32年)夏、チャンピイの訓練が終わると、河相のもとに通って歩行指導にあたった。賢一は「まず、信頼関係を築くためにも、チャンピイの日常の世話は、河相さん自身で行なわなければいけない」と説き、実際にハーネスを持ってチャンピイと歩いてもらった。その後、横断歩道などで「行け」と指示を出しても、車が来たら後戻りして指示に従わないという訓練も行い、賢一が車を運転して、道路を渡ろうとする河相とチャンピイの前にわざと突っ込んでくるという訓練も行い、車が来たらチャンピイは後ずさりする、河相はチャンピイの動きについて後退するという練習を繰り返した。また、長い石段の上り下りや、商店街で障害物を避ける練習も行ない、こうした歩行指導は3週間近くにわたって毎日行なわれた。こうした訓練の末、同年8月に日本で初めての盲導犬が誕生。チャンピイの活躍は、新聞やテレビで度々紹介された。チャンピイ誕生以降、次々と盲導犬使用者のペアが巣立っていき、使用者が増えるにしたがって盲導犬の存在が社会に根付いていった。チャンピイに続く盲導犬を着実に増やすため、賢1958年(昭和33年)に『日本盲導犬学校』をスタート。しかし、翌年に戦時中に患った結核が再発。盲腸も併発して4回にわたり手術をした。それでも情熱は衰えず、闘病生活の間も育成事業は継続した。やがて実績を認める人たちが増え、出資者を得て、1967年(昭和42年)に『日本盲導犬協会』を設立。スタッフも加わって組織的な育成が始まった。1969年(昭和44年)、東京都知事賞を受賞。11月には米国のThe Seeing Eyeを訪問して友好関係を拓く。後年4度渡航して、各国の盲導犬施設を訪ねたが、各国諸施設の訓練方法は塩屋自身の開発したものと殆ど変わりがなく、自信を深めて帰国した。また、東京都が盲導犬育成事業を開始し、日本盲導犬協会がそれを受託した。自治体が公的に資金を出し、盲導犬を育てる時代が到来となったのだが、この頃から賢一と協会の理事に就任した出資者との間で考え方の違いが表面化。「盲導犬ビジネス」として協会事業を拡大したい出資者側と、あくまで「視覚障害者福祉」として事業を継続したい賢一の対立は深まり、出資金は約束通り支払われることはなかった。1970年(昭和45年) 、盲導犬は視覚障害者の目であるというポリシーを貫くため、日本盲導犬協会と訣別。その後、若い指導員たちが仕事をボイコットして出ていってしまうという事件が発生。いったんは盲導犬から手を引くことを考えるも、長男からの叱咤激励で立ち直り、1971年(昭和46年)に『東京盲導犬協会』を設立。その後、東京都に続いて多くの自治体が盲導犬育成事業に乗り出し、その大半を賢一の東京盲導犬協会が受託した。この当時、社会の受け入れ体制はまだまだ視覚障害者の社会進出に沿ったものではなく、国鉄(現在のJR)に盲導犬を伴って乗車する場合には、乗車1週間前の申請が必要だった。これでは使用者の外出が制限されてしまううえ、複数の盲導犬育成団体が設立され始めていたことから申請手続きにも混乱が生じ始めていた。これらの不合理を正するため、東京盲導犬協会の呼びかけで1972年(昭和47年)に『全国盲導犬協会連合会』が発足。これにより、申請の窓口が一本化された。同年10月10日、啓発活動として第1回アイメイト・デーを実施。1977年(昭和52年)、東京盲導犬協会顧問の参議院議員が、国鉄乗車の問題など社会の盲導犬使用に関わる様々な社会問題について初めて国会で質問。これを機に、国鉄に申請なしで乗れる自由乗車が、続いて1978年(昭和53年)にバスの自由乗車が実現。1980年(昭和55年)には、航空会社や私鉄もこれに追従。その後、それまで飛行機やバスなどで義務化されていた盲導犬の口輪装着義務も撤廃された。1981年(昭和56年)、レストランや喫茶店、旅館に対しても入店拒否などをしないよう、対応協力の指導が国からなされた。1982年(昭和57年)、なかなか日の当たらない盲導犬育成事業を長年地道に行ってきたことが讃えられ、吉川英治文化賞を受賞。1989年(平成元年)、『東京盲導犬協会』は『アイメイト協会』に名称を変更。賢一は、常々「盲人を導く犬」を意味する「盲導犬」という呼称は、視覚障害者と犬の共同作業である歩行の実態にそぐわないと考えており、そのため新たに考えたのが「目」「私」「愛」と「仲間」「パートナー」を一つの言葉で表す『アイメイト』という呼称だった。一方、訓練施設は老朽化し、アイメイトを希望する視覚障害者の増加と共に手狭になっていた。賢一の「歩行指導を受ける視覚障害者のプライバシーが守れる機能的な施設にしたい」という長年の思いもあり、1996年(平成8年)10月10日、東京・練馬区関町に『視覚障害者歩行訓練センター』が竣工された。その間の1993年(平成5年)には、盲導犬(アイメイト)事業を通じて社会福祉に長年携わってきた功績が認められ、勲五等瑞宝章を受章した。2001年(平成13年)頃から体力の衰えが目立つようになり、後には足の骨を折るけがをして車椅子の生活が続いた。歩行訓練センターに顔を出すことも、週に1、2回から、月に数回へと減っていった。2002年(平成14年)、アイメイトを通じて視覚障害者に歩行の自由を与え、自立と尊厳の獲得、社会参加を支援した貢献が認められ、ヘレン・ケラー・サリバン賞を受賞。2005年(平成17年)、アイメイト協会の理事長を退き、会長に就任。2010年(平成22年)9月12日、肺炎と呼吸不全のため東京都武蔵野市の病院で死去。享年88。


塩屋賢一(1921~2010)_f0368298_02550496.jpg

塩屋賢一(1921~2010)_f0368298_02550375.jpg

日本に盲導犬の文化を根付かせ、「盲導犬の父」と呼ばれた塩屋賢一。参考となる資料がない中、1年以上をかけ手さぐりで訓練方法を編み出し、日本の盲導犬第1号チャンピイを誕生させた。その功績は、NHKの『プロジェクトX』で取り上げられたほか、フジテレビ系列で伊藤淳史主演によるドラマ化もなされた。今や盲導犬848頭が実働数として存在する日本。「あくまでアイメイトは名脇役、主役は人である」の信念で活動を続け、大きな足跡を残した塩屋賢一の墓は、東京都三鷹市のメモリアルガーデン三鷹にある。洋型の墓には「塩屋家」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2023-04-23 02:56 | 慈善関係 | Comments(0)