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三木たかし(1945~2009)

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三木 たかし(みき たかし)

作曲家
1945年(昭和20年)〜2009年(平成21年)

1945年(昭和20年)、東京都に生まれる。本名は、渡邊 匡(わたなべ ただし)。父親は仕事が長続きせず母親が家計を支えており、かなりの貧困家庭で育つ。自宅に借金取りが訪れると、妹で後に歌手となる黛ジュンと押入れに籠もり、紙で書いた鍵盤を弾いて遊んでいた。そうした環境下でありながら、母から質流れのギターを買ってもらい、これを大切に持ち歩いていたという。やがて歌手に憧れ、12歳のときに知り合いを介して、妹と共に船村徹のもとを訪れる。その際、妹の歌をワンコーラス聴いただけで「君は歌手になりなさい」と言ったが、三木の歌をワンコーラス聴いた船村は、持ってきていた三木の作曲した譜面を見て「君は作曲家の方が向いている」と言われ方向転換する。その後、ジャズベーシストの小野満に弟子入りし、作曲と編曲を学ぶ。15歳のときには、自分で作詞・作曲した『恋のとりこ』で本名の渡辺匡として歌手デビュー。都内のダンスホールでも歌声を披露していた。1967年(昭和42年)、作詞家・なかにし礼の推薦を受け、『恋はハートで』(歌唱: 泉アキ)で作曲家デビューを果たす。1968年(昭和43年)、妹の黛ジュンに提供した『夕月』が66万枚のヒット。オリコンチャート最高位2位を記録した。1969年(昭和44年)、『禁じられた恋』(歌唱: 森山良子)が8週連続チャート1位の大ヒットとなる。自身の作品が初めて同年の『NHK紅白歌合戦』で歌唱された。しかし、ヒットが続いたことから過信し、やがてスランプに陥る。曲が書けなくなった三木は、一ヶ月に本を30冊読み、ジャンルを問わず大量にレコードを買い込んできて、睡眠時間を削って聴き漁ることでスランプを脱しようとした。1973年(昭和48年)、追い込まれた三木は、親交のあった作詞家・阿久悠のもとを訪問。相談に乗ってもらっていると、キャニオン・レコードの社長が、名古屋のラジオで人気となったあべ静江のデビュー曲を阿久に依頼するべく訪ねてきた。阿久は社長に、作曲を三木が担当することを提案。あべのデビュー曲『コーヒーショップで』はオリコンでベスト10内にランクされる大ヒットに。続く『みずいろの手紙』もヒットし、スランプを脱する。以降、阿久悠とのコンビで生み出した作品は全458曲にのぼり、伊藤咲子や石川さゆりをスターに押し上げたほか、西城秀樹をワイルド路線から大人路線へとシフトチェンジさせた。1977年(昭和52年)、『津軽海峡・冬景色』(歌唱: 石川さゆり)で第19回日本レコード大賞・中山晋平賞(後の作曲賞)を受賞。また、劇団四季のミュージカル『ユタと不思議な仲間たち』の音楽を担当。以降、『夢から醒めた夢』、『李香蘭』、『異国の丘』、『南十字星』など担当した。1979年(昭和54年)、もう一度音楽を勉強したいという思いからニューヨークへ渡り、現代音楽を学ぶ。1982年(昭和57年)、『漁火挽歌』(歌唱: 石川さゆり)で古賀政男記念音楽大賞優秀賞を受賞。1983年(昭和58年)、『日本海』(歌唱: 八代亜紀)で第25回日本レコード大賞特別金賞を受賞。1984年(昭和59年)、『北の螢』(歌唱: 森進一)で第26回日本レコード大賞金賞を受賞。一方、荒木とよひさとのコンビで、テレビ朝日系『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の企画ユニット「わらべ」に『めだかの兄妹』や『もしも明日が…。』などの楽曲を提供。その後、荒木とのコンビでテレサ・テンに提供した『つぐない』(1984年)、『愛人』(1985年)、『時の流れに身をまかせ』(1986年)がいずれも有線放送を中心に大ヒット。3年連続で全日本有線放送大賞、および日本有線大賞を受賞した。また、『時の流れに身をまかせ』で第6回日本作曲大賞大賞と第28回日本レコード大賞金賞及び作曲賞も受賞した。1987年(昭和62年)、『追憶』 (歌唱: 五木ひろし)で古賀政男記念音楽大賞と第29回日本レコード大賞金賞を受賞。1988年(昭和63年)、日本テレビ系アニメ『それいけ!アンパンマン』に、オープニングテーマ曲『アンパンマンのマーチ』とエンディングテーマ曲『勇気りんりん』(共に歌唱: ドリーミング)を提供。『アンパンマンのマーチ』は後に着うた配信でミリオンセラーを達成し、近年では小学校の音楽の教科書に載るなど童謡としても親しまれている。1989年(平成元年)、『風の盆恋歌』(歌唱: 石川さゆり)で第31回日本レコード大賞金賞を受賞。1991年(平成3年)、『悲しみの訪問者』(歌唱: 桂銀淑)で第33回日本レコード大賞ゴールドディスク賞を受賞。1992年(平成4年)、『花挽歌』(歌唱: 香西かおり)で第34回日本レコード大賞ゴールドディスク賞及び作曲賞、第23回日本歌謡大賞を受賞。1994年(平成6年)、『夜桜お七』(歌唱: 坂本冬美)がロングヒットとなり、同年の第36回日本レコード大賞優秀賞及び作曲賞を受賞。2004年(平成16年)、日本作曲家協会の理事長に就任。また、日本レコード大賞制定委員や事務局長も務めた。2005年(平成17年)、紫綬褒章を受章。同年、第47回日本レコード大賞吉田正賞を受賞した。2006年(平成18年)、下咽頭癌が発覚。既に頸部リンパ節に転移していたことから、声帯の一部を切除。喉の感覚を失わないようにするために左腕の皮膚と神経を移植する手術を受けた。しかし、同年末には肺への転移が見つかり、重粒子線治療を受けたが完治には至らなかった。2008年(平成20年)には会話を筆談に頼るまでに症状が悪化。再度手術を行い、声を失った。その後、岡山県の病院に癌治療の名医がいるという紹介を受け、岡山市内の病院に入院。2009年(平成21年)1月13日、『NHK歌謡コンサート』で黛ジュンと30年ぶりに兄妹出演を果たした。自身作曲の『さくらの花よ 泣きなさい』を黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、これが生涯最後のテレビ出演となった。同年5月10日、体調が悪化し緊急入院。一時は持ち直したが、11日午前6時5分、岡山県岡山市の病院にて死去。享年64。


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ジャンルにとらわれず、歌謡曲黄金時代に多彩なヒット曲を世に送りだした三木たかし。シングル総売上枚数約2000万枚以上という輝かしい記録を持ち、特に作詞家の阿久悠や荒木とよひさとのコンビは広く知られ、歌謡史に残る名曲の数々を量産した。余談であるが、テレサ・テンに提供した一連のヒット曲は、筆者が昭和歌謡の虜となる契機となった。晩年は癌の闘病で声を失い、そうした状況で出演した『NHK歌謡コンサート』で、黛が泣きながら『さくらの花よ 泣きなさい』を歌唱し、その後ろで三木も涙を溜めてギター伴奏をしていたのが今でも脳裏に焼きついている。時にドラマチック、時に美しく切ないメロディーを紡いだ三木たかしの墓は、東京都台東区の安昌寺にある。墓には「渡邊家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「耀功院奏心匡道居士」。

by oku-taka | 2023-04-23 02:41 | 音楽家 | Comments(0)