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杉山寧(1909~1993)

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杉山 寧(すぎやま やすし)

日本画家
1909年(明治42年)〜1993年(平成5年)

1909年(明治42年)、東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に生まれる。父親が早くに他界したため母親に育てられ、浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、中学校卒業後に日本画を1年ほど学んだ後の1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。日本画家の松岡映丘に師事する。圧倒的なデッサン力で頭角を現し、在学中の1929年(昭和4年)帝展(帝国美術院展覧会)に出品し、特選を受賞した。1931年(昭和6年)、東京美術学校日本画科を卒業。結城素明に師事する。1932年(昭和7年)、第13回帝展で『磯』が特選となり、画壇にデビュー。1934年(昭和9年)、第15回帝展で『海女』が再び特選となる。同年、山本丘人、浦田正夫、高山辰雄らと「瑠爽画社」を結成。日本画の革新をめざす運動に携わる。また、第1回日独交換留学生に選ばれ、ベルリン大学に学ぶ。しかし、1938年(昭和13年)に肺結核を病み、これを機として瑠爽画社が解散。闘病生活に入り、1943年(昭和18年)に朝鮮満洲支那へ取材旅行に出かけるも、その後は病のために長く創作活動が止まった。1947年(昭和22年)、日展(日本美術展覧会)特選となる。1950年(昭和25年)、日展の審査員を務める。1951年(昭和26年)、『エウロペ』を日展に出展して本格的に画壇に復帰。1957年(昭和32年)、「孔雀」で日本芸術院賞を受賞。1958年(昭和33年)、社団法人に改まった日展の評議員となる。また、同年から1986年(昭和61年)12月号まで『文藝春秋』の表紙画を担当した。1959年(昭和34年)、『仮象』という作品を皮切りに、抽象作品の連作を発表。それまで和紙や絹といった日本画の技法を極めた技巧で知られたが、以降は洋画で使うカンヴァス(麻布)を支持体とし、岩絵具に細かい砂などを混ぜて、厚塗りのざらざらとした質感を追究。やがて、色面構成のように抽象的なモティーフを組み合わせた背景に、細密に描写した花鳥を配置する独自の画風を打ち立てた。1962年(昭和37年)、1年かけてエジプト、ヨーロッパを巡歴。1964年(昭和39年)の新日展にその成果『穹』を発表した。1969年(昭和44年)、日展常務理に就任。1970年(昭和45年)、日本芸術院会員に選出。1974年(昭和49年)、日展理事長に就任。また、文化功労者に選出。文化勲章も受章した。1976年(昭和51年)、西ドイツより大功労十字勲章を授けられる。1977年(昭和52年)、東京国立近代美術館の評議員となる。1978年(昭和53年)、再び海外に取材旅行へ出かけ、このときに訪れたトルコの秘境カッパドキアの火山の影響で形成された奇岩の連なる光景に大きな衝撃を受ける。帰国後、『嵤』『嵓』『盈』といったカッパドキア連作を生み出し、杉山芸術の最高峰といわれた。1993年(平成5年)10月20日午前0時5分、心不全のため死去。死後、従三位に叙せられる。


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長らく日展を中心に活躍し、東山魁夷、高山辰雄とともに日展三山と呼ばれた杉山寧。日本画に洋画で用いられる手法を取り入れ、戦後の日本画壇に新しい領域を切り開いた。また、抽象と写実を融合した二重構造によるその世界観は「造形主義」と評された。高山も驚いたというその集中力と、対象物を生き生きと表現させた大胆な構成力。そして、納得いくまで絵を修正し続ける完璧主義者な性格。今なお絵画ファンを虜にしてやまない杉山作品は、この3つの要素によって成り立っていた。新しいスタイルの日本画を開拓した杉山寧の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。2つの墓碑に分けられ、1つは長男が建立されたと思しき「杉山寧大人命/杉山元子刀自命」の墓。もう1つは、次男が建立されたと思しき「杉山家」の墓で、それぞれに分骨されている。

by oku-taka | 2023-04-16 15:13 | 芸術家 | Comments(0)