人気ブログランキング | 話題のタグを見る

朝倉響子(1925~2016)

朝倉響子(1925~2016)_f0368298_00382820.jpg

朝倉 響子(あさくら きょうこ)

彫刻家
1925年(大正14年)〜2016年(平成28年)

1925年(大正14年)、彫刻家・朝倉文夫の次女として東京に生まれる。本名は、朝倉 矜子。当時、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で教鞭をとっていた父の「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。幼少期は姉の摂(後に舞台美術家となる)とともに絵を描いていたが、やがて彫刻を制作するようになり、1939年(昭和14年)9月に東京府美術館で開催された第12回朝倉彫塑塾展覧会に「習作(第一)」「習作(第二)」「手習作」「手習作(イ)」「手習作(ロ)」の5点を出品。1942年(昭和17年)10月の第5回新文展に「望」を出品し、初入選を果たした。1943年(昭和18年)10月、第2回日展に出品した「晨」で特選を受賞。以後日展では、1947年(昭和23年)第3回展に出品した「萌」、1950年(昭和25年)第6回展に出品した「作品S」、1951年(昭和26年)第7回展に出品した「Mlle S.」で特選を受賞。1952年(昭和27年)の第8回展、1957年(昭和32年)の第13回展では審査員を務めたが、その後に日展を脱退した。一方、1954年(昭和29年)5月に第1回現代日本美術展へ「首」を出品。以後、第8回展まで毎回作品を出品した。1958年(昭和33年)4月、新聞を配る少年保護育成の会の依頼で約1年をかけて制作した新聞配達の少年像が完成。麻布有栖川宮記念公園に設置された。1959年(昭和34年)5月、第5回日本国際美術展に「男の顔」を出品。以後、第9回展まで毎回作品を出品する。1960年(昭和35年)春、それまで父のアトリエの一隅を仕切って制作を行っていたが、本郷千駄木町にアトリエを新設。1961年(昭和36年)、新聞配達の少年像をきっかけとし、神田錦町の製本業者からの依頼で製本工の像を制作。10月、文藝春秋画廊にて初の個展を開催。1965年(昭和40年)1月、朝日新聞社主催の第16回選抜秀作美術展に「ともえさん」が選抜出品される。1967年(昭和42年)11月、ギャラリー・キューブにて個展を開催。石彫、ブロンズによる作品10余点を出品し、中でも3点のトルソでは形態の単純化と抽象化が見られた。こうした傾向は1970年(昭和45年)4月にギャラリー・ユニバースで行った個展でも見られ、ブロンズによる具象的な人物像と石彫によるトルソという彫塑と彫刻の両方が試みられた。また、1960年代後半頃よりブロンズによる女性像には着衣のものが多く見られるようになり、「アヤ」「リサ」「ユミ」「マヤ」などの女性名をタイトルにした作品も発表された。1971年(昭和46年)7月、第2回現代国際彫刻展に招待され、「女」を出品。1973年(昭和48年)9月、ギャラリー・ユニバースで個展を開催。椅子に腰掛け両足をまっすぐに伸ばした着衣の女性像「WOMAN」をはじめとしたブロンズ作品18点を発表する。1974年(昭和49年)9月、第2回現代彫刻20展に招待され、「WOMAN」「WOMAN」「FACE・S」を出品。1970年代後半頃、それまでのデッサンにかわってモデルの写真を撮るようになり、その写真から対象のイメージを引き出し、造形化するという新しい方法での制作を行うようになる。1978年(昭和53年)10月にギャラリー・ユニバースで行った個展では、有名歌手やファッションモデルをモデルに制作した作品を発表。1979年(昭和54年)、布施明をモデルにした「F」(後に「憩う」と改題)で第7回長野市野外彫刻賞を受賞した。1980年(昭和55年)1月、写真家の奈良原一高が撮影を担当した写真集『光と波と 朝倉響子彫塑集』を刊行。1982年(昭和57年)、前年の個展で発表した「ニケ(NIKE)」で第13回中原悌二郎賞優秀賞を受賞。1985年(昭和60年)9月、写真家・安斎重男の撮影による写真集『KYOKO』の刊行を記念し、渋谷のパルコパート3内のスペースパート3にて個展を開催。同会場では1988年(昭和63年)9月、1993年(平成5年)3月にも個展を開催した。ている。2000年(平成12年)9月、現代彫刻センターにて個展を開催。同年11月には大分県の朝倉文夫記念文化ホールにて、70年代からの作品38点に野外設置作品の大型プリント9枚を加えた回顧展「愛の園生 朝倉文夫記念公園開園10周年記念 朝倉響子展」が開催された。2003年(平成15年)12月、北九州市立美術館にて回顧展「朝倉響子展―ときの中で―」が開催。2006年(平成18年)、中原悌二郎賞を受賞。2010年(平成22)1月には上野の森美術館ギャラリーにて個展を開催したが、2016年(平成28年)5月30日午後8時36分、腸閉塞のため東京都文京区の病院で死去。享年90。


朝倉響子(1925~2016)_f0368298_00383082.jpg

朝倉響子(1925~2016)_f0368298_00382928.jpg

朝倉響子(1925~2016)_f0368298_00382812.jpg

「東洋のロダン」と呼ばれた朝倉文夫を父に持ち、女性彫刻家として現代具象彫刻を代表する存在だった朝倉響子。朝倉文夫の娘と言われることを嫌った姉・朝倉摂とは異なり、反抗することなく父と同じ道を歩んだ彼女は、スタイリッシュなモデルを起用し、その四肢をありのまま表現することを得意とした。また、国内に多くのパブリックアートを設置し、東京・町田の「WOMAN」、大阪・御堂筋の「ジル」、兵庫・姫路の「二コラ」などが挙げられる。朝倉響子の墓は、東京都台東区の谷中霊園天王寺墓地にある。墓には「朝倉文夫夫妻之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「澄月院純心妙響清大姉」。

by oku-taka | 2023-03-12 00:41 | 芸術家 | Comments(0)