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鳩山一郎(1883~1959)

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鳩山 一郎(はとやま いちろう)

政治家
1883年(明治16年)〜1959年(昭和34年)

1883年(明治16年)、衆議院議長を務めた鳩山和夫の長男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)東五軒町に生まれる。高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)、高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)、 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て、1907年(明治40年)に 東京帝国大学法科大学英法科を卒業。父の弁護士事務所に勤めるも、1911年(明治44年)に父が死去。1912年(大正元年) 、父の補欠選挙で東京市会議員に初当選。1915年(大正4年)、立憲政友会公認で衆議院議員に当選。1924年(大正13年)、政友会分裂に伴い、政友本党に参加。しかし、1925年(大正14年)に政友本党を離党。同交会を経て、翌年に自身が中心となって合計26名で政友会に復党。田中義一総裁に気に入られ、復党早々に幹事長に登用されてたことが、党内の反発を受けた。1927年(昭和2年)、田中義一内閣で内閣書記官長に就任。同年5月2日、正五位に叙される。1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議で、軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして、犬養毅総裁とともに濱口内閣を攻撃した。また、第2次若槻内閣末期には山本悌二郎、森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山、今村均、東條英機らに倒閣を持ちかけるといった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた。こうした行動は戦後になってGHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱める結果となり、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。1931年(昭和6年)、犬養内閣で文部大臣に就任。五・一五事件後の斎藤内閣でも引き続き文部大臣を務めた。1932年(昭和7年)、義兄の鈴木喜三郎が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。同年10月28日、京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授が中央大学駿河台校舎で開催された刑法学講演会(中大法学会主催)で「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」を講演。この内容が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発し、1933年(昭和8年)4月に内務省が瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として出版法第19条により発売禁止処分を下した。1934年(昭和9年)5月には鳩山が文相として小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月25日に文官高等分限委員会に休職に付する件を諮問し、その決定に基づいて翌26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行した。瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の松井元興総長が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。松井総長は、辞表を提出した教官のうち瀧川および佐々木惣一、宮本英雄、森口繁治、末川博、宮本英脩の6教授のみを免官としてそれ以外の辞表を却下し、さらに鳩山との間で「瀧川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。この結果、法学部教官は解決案により要求が達成されたとして辞表を撤回した中島玉吉、末広重雄、牧健二などの残留組と、辞表を撤回せず解決案を拒否した辞職組に分裂し、前記6教授以外に恒藤恭および田村徳治の教授2名、大隅健一郎、大岩誠ら助教授5名、加古祐二郎ら専任講師以下8名が辞職という形で事件は決着した。同年、勲一等瑞宝章を受章。しかし、1月17日に『時事新報』(武藤山治社長)が「番町会問題をあばく」を掲載し、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、昭和恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山や「番町会」(関東大震災の前頃に河合良成、岩倉具光、後藤圀彦が、懇意の郷誠之助男爵の番町の自宅を訪れ食事を共にする会として設立)という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。この一件を贈収賄疑惑と報じられ、文部大臣の鳩山は議会で関連を追及された。樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく、「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任した。1936年(昭和11年)2月20日の総選挙では、総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大顰蹙を買う。1937年(昭和12年)、中島知久平、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会総裁代行委員に就任。鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島、前田、島田らと対立した。1939年(昭和14年)、政友会の分裂に伴い、正統派に所属。中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し、反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ、自由主義的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったため、やがて鳩山は久原とも対立した。1940年(昭和15年)、民政党総裁の町田忠治と極秘に会談し、政友会の正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために久原から圧力をかけられる。1942年(昭和17年)、翼賛選挙に非推薦で出馬し、無所属で当選。しかし、1943年(昭和18年)の第81帝国議会で東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対。翼賛政治会を脱会した。その後は長野県軽井沢の別荘で隠遁。鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。軽井沢に引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。1945年(昭和20年)8月15日、軽井沢の石橋正二郎の別荘で玉音放送を聞き、翌16日には数年に及ぶ山荘生活に終止符を打って、東京へ帰った。9月15日付の朝日新聞東京版に、原子爆弾の投下は国際法違反の戦争犯罪であるという内容を含む談話を発表。GHQは朝日新聞に48時間の発行停止を命じた。1946年(昭和21年)の総選挙では日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたこと等をGHQが問題視し、同年5月7日(GHQの処分決定は同年5月3日)に公職追放の処分を受けた。軍国主義台頭に協力した(統帥権や滝川事件)との理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカを批判したことが各新聞の記事に載ったことが理由とされた。公職追放に際し、鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に第1次吉田内閣が発足。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1951年(昭和26年)6月11日、自邸で自由党への復帰を巡る議論の最中に脳溢血で倒れる。同年8月6日、追放が解除。首相の座を目前にした追放や追放解除を目前にしての健康問題と、不運な状態が続いた鳩山は、世間の同情を集めることとなった。1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙で自由党代議士に復帰。1953年(昭和28年)、友愛を標榜する友愛青年同志会が結成され、鳩山は会長に就任。10万人の会員を率いる会長として政財界で指導力を発揮した。鳩山の提唱する「友愛」は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『The Totalitalian State against Man』(直訳: 全体主義国家対人間)を原点としており、元々同書はクーデンホーフ=カレルギーのアメリカ亡命を手助けした日本人外交官・米澤菊二に贈呈したものであったが、米沢の帰国後、本は早稲田大学教授・市村今朝蔵の手を経て鳩山に渡された。鳩山は「Fraternity」(フラタニティ。元のドイツ語はBrüderlichkeit ブリューダーリッヒカイト)を「友愛」と訳出し、『自由と人生』の邦題で洋々社から出版。鳩山は友愛の普及に努め、彼の孫の代に引き継がれるに至っている。その一方、政界においては、吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、吉田との対立が表面化。バカヤロー解散での造反と吉田自由党への再合流を経て、1954年(昭和29年)11月24日に再び自由党を離脱。改進党と合流し、日本民主党を結党した。その後、貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂は不人気で政権を降り、同年12月10日に第52代内閣総理大臣となった。これにより、首相としては初の地方議会議員経験者となった。吉田の後を受けて内閣総理大臣となった鳩山は、日本民主党だけでは衆議院で過半数に足りなかったため、前年の首班指名選挙では左右両社会党の支持をもって首班指名を受けた。その際の見返りとして、鳩山は左右社会党に対して早期解散の約束をしていた。1955年(昭和30年)1月24日、衆議院本会議では政府三演説に対する代表質問が行われて、社会党の長正路議員の質問に対し、まず鳩山・一万田尚登蔵相が答弁。次に石橋湛山通産相が登壇して答弁を始めたその時、松永東衆議院議長が突然「石橋湛山君、石橋湛山君……」と石橋の言葉をさえぎり、「石橋湛山通商産業大臣、しばらくお待ち下さい」と言葉を続けると、議場内は騒然となった。そして松永が「ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします」と告げると、解散を今や遅しと待ちわびていた与党民主党と左右両社会党の議員たちの興奮は頂点に達した。松永は「日本国憲法第7条により、衆議院を解散する。御名御璽。」と朗読。 この瞬間、議場内は拍手と「万歳! 万歳!」の掛け声がこだました。新聞記者に「なぜこの日に」とたずねられた鳩山は、淡々と「天の声を聞いたからです。」と答えて記者たちをうならせた。鳩山民主党はその後の第27回総選挙でも単独過半数を制することができず、少数与党にとどまったが、この解散・総選挙を通じて巻き起こった「鳩山ブーム」は鳩山に政権浮揚に必要な「人気」を与えて余りあるものをもたらすことになった。同年11月15日、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党(自民党)を結成。これにより保守勢力と革新勢力を軸とした55年体制が確立された。1956年(昭和31年)4月5日に自民党初代総裁に就任し、7月8日の第4回参議院議員通常選挙では「友愛精神」の政治理念と日ソ国交回復・独立体制の整備・経済自立の達成などの政策目標を訴え、再び鳩山ブームを起こした。鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。また、原子力基本法を成立させ、後の原子力発電時代の礎を築いた。1956年(昭和31年)、モスクワで日ソ共同宣言に調印。吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、日ソ共同宣言を批准し、公約通り日ソ国交回復を成し遂げた。鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。政界の第一線を退いた。その後、友愛青年同志会を育成しながら療養生活を送り、1959年(昭和34年)3月7日午前10時47分、狭心症のため東京都文京区音羽の自宅にて死去。享年77。衆議院議員在職のまま没した。没後、大勲位菊花大綬章が追贈された。


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自民党初代総裁を務め、55年体制が成立してから初の総理大臣となった鳩山一郎。「友愛精神」の政治理念を旗印に、総理大臣の座を巡って対立した吉田茂とともに戦後の日本を形成。その集大成として、日ソ国交の正常化を実現させた。息子も孫も同じ道を歩み、特に鳩山由紀夫は総理大臣を務めたが、現在のあの体たらくさを見て、草葉の陰から何を思っているのだろうか。鳩山一郎の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。四基ある墓のうち、一郎の墓は真ん中に鎮座しており、墓には「鳩山一郎 妻 薫」とある。

by oku-taka | 2023-03-12 00:18 | 政治家・外交官 | Comments(0)