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渋沢敬三(1896~1963)

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渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう)

経済人・民俗学者
1896年(明治29年)〜1963年(昭和38年)

1896年(明治29年)、渋沢栄一の長男・篤二の長男として、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1909年(明治42年)、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1913年(大正2年)、渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を後継者に指名した。1914年(大正3年) 、後に民俗学者となる柳田國男と初めて出会う。これを機に、民俗学に傾倒するようになる。1915年(大正4年)4月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。同時期に、祖父の栄一により澁澤同族株式会社が設立され、同社の初代社長に就任。7月には仙台の第二高等学校試験に合格し、9月に同校へ入学する。1918年(大正7年)7月、第二高等学校を卒業。当初は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する祖父が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、 9月に東京帝国大学法科大学経済学科へ入学した。1921年(大正10年)、港区三田の自邸の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」 をつくる。その後、東京帝国大学経済学部(前々年の学部制導入時に法学部から分離独立)を卒業し、横浜正金銀行に入行。1922年(大正11年)にはロンドン支店に着任したが、1925年(大正14年)に栄一の体調がおもわしくなかったことから帰国。1926年(大正15年)、横浜正金銀行を退職し、栄一ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任した。1931年(昭和6年)、栄一の死去にともない子爵を襲爵。1932年(昭和7年)、糖尿病の療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』を刊行し、後に日本農学賞を受賞した。また、竜門社が企画した「日本実業史博物館」を主導し、書籍、絵画(含む広告)、器物、紙幣など近世経済史資料の収集を進めるが、こちらは戦時統制経済の影響で建築資材が集められずに挫折している。1934年(昭和9年)、日本民族学会を設立。理事となる。1937年(昭和12年)、保谷に民族学博物館を開設し、アチック・ミューゼアムの資料を移管する。1941年(昭和16年)、第一銀行副頭取に就任。1942年(昭和17年)、日本銀行副総裁に就任。1944年(昭和19年)、第16代日本銀行総裁に就任。1945年(昭和20年)3月17日、貴族院議員となる。戦後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。これに伴い、日本銀行総裁を辞任した。在任中は、預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。また、この頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋澤家はGHQの財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)には澁澤同族株式会社も持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦、津島寿一、次田大三郎らとともに証人喚問された。1949年(昭和24年)、水産庁に水産資料館設置を進言。1951年(昭和26年)、公職追放解除となる。同年、経済団体連合会相談役に就任。1953年(昭和28年)、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD)の社長に就任。また、十和田科学博物館を開設。在日沖縄戦災校舎復興後援会の会長にも就任した。1955年(昭和30年)、渋沢栄一伝記資料刊行会より『渋沢栄一伝記資料』の刊行を開始。1956年(昭和31年)、財界が共同で設立した文化放送の会長に就任。また、KDD会長、日本モンキーセンター初代会長にも就任した。1957年(昭和32年)、外務省顧問に就任。移動大使として、中南米各国を歴訪した。また、日本電波塔株式会社設立時の取締役にも就任した。1960年(昭和35年)10月31日、熊本大学における第15回日本人類学会・日本民族学協会連合大会に出席して発病。11月7日、東京大学医学部附属病院に入院した。1961年(昭和36年)1月17日には回復して退院するも、2月に腎機能不全のため虎の門病院に入院。療養生活を送りながらも、東洋大学の理事に就任し、小川原湖民俗博物館を開設した。1963年(昭和38年)、朝日賞を受賞。5月、文部部省史料館に寄贈した民俗資料の収蔵庫が落成し、その式典に出席。6月には東洋大学の名誉文学博士号を授与。その贈呈式にも出席したが、8月18日に病状が悪化し、虎の門病院に再入院。10月25日午後9時30分、糖尿病と萎縮腎の併発のため死去。享年67。没後、勲一等瑞宝章を追贈された。


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昨年、大河ドラマでその生涯が描かれ、大いに話題となった渋沢栄一。その栄一から若くして後継者に懇請され、経済界に身を投じたのが孫の渋沢敬三である。経済人として、日銀総裁や大蔵大臣を務め、戦中戦後の混乱期における日本経済の重責を担った。その一方で、民俗学に傾倒し、自ら漁業史を研究するなど文化活動にも尽力。庶民資料館の開設や学術団体の支援、そして多くの民俗学者を育て、岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、伊谷純一郎らに援助を行った。「日本近代資本主義の父」の後継者として数多の役職を務め、日本の経済界に多くの貢献をしながらも、夢であった動物学者への道を諦めざるを得なかった自分への癒しなのか、研究者たちの調査研究費用、刊行物の出版費用などの莫大な金額を次々にポケットマネーから注ぎ込んだ渋沢敬三。自らを「得たいの知れない男である」と語った男の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。長らく渋沢家の墓域は塀に囲われていたが、2020年(令和2年)に公園として整地され、その際に合祀墓へ納骨されていた敬三は個人墓として独立し、栄一の墓と栄一の先妻・千代の墓の間に建立された。墓には「渋澤敬三 渋澤登喜子之墓」とあり、洋型の新しい合祀墓の右側に墓誌が建つ。戒名は「謙徳院殿慈岳敬道大居士」。

by oku-taka | 2023-02-26 21:45 | 経済・技術者 | Comments(0)