人気ブログランキング | 話題のタグを見る

鳩山邦夫(1948~2016)

鳩山邦夫(1948~2016)_f0368298_22565176.jpg

鳩山 邦夫(はとやま くにお)

政治家
1948年(昭和23年)〜2016年(平成28年)

1948年(昭和23年)、政治家・鳩山一郎の孫、鳩山威一郎元の次男として東京都に生まれる。学習院初等科、学習院中等科、筑波大学附属高等学校を経て、東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。その後、同学部第2類(公法コース)に学士入学し、卒業した。学生時代は秀才として知られ、高校時代は駿台予備校の模擬試験を5回受け、1回目は600番くらい、3回目が105番、4回目に60番、5回目に現役生にもかかわらず1番になった。また、東京大学法学部を首席で卒業している。早くから政界入りを志望し、田中角栄の下を訪ねる。田中は「もし自分が首相になったら秘書にする。福田赳夫が首相になったら、福田に紹介する」と約束した上で、見聞を広めるため海外への遊学を鳩山に勧めた。田中の助言を受け、アメリカ・スタンフォード大学に留学していた由紀夫を頼り、数ヶ月間アメリカに滞在。帰国後、田中の秘書となった。1976年(昭和51年)、第34回衆議院議員総選挙に新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し、初当選。同じく無所属の宇都宮徳馬、麻生良方と衆院無党派クラブを結成したが、1978年(昭和53年)に解散した。同年12月、自民党に入党。田中派に所属した後、竹下派に移った。1期下の船田元と共に早くから竹下派のホープとして期待されたが、1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙において落選。しかし、8か月後に行われた第36回衆議院議員総選挙で国政に復帰。行政管理政務次官、文部政務次官、自民党文教部会長、衆議院文教委員長、自民党国際局長などを経て、1991年(平成3年)に宮澤内閣で文部大臣に就任。政界入りから16年目で初入閣となった。1993年(平成5年)、自民党を離党。第40回衆議院議員総選挙では無所属で当選し、細川内閣発足後もしばらくは無所属で通していたが、自民党を離党した西岡武夫、石破茂らと1994年(平成6年)1月に院内会派・改革の会を結成した。細川護煕首相の退陣を受けて発足した羽田内閣では労働大臣に就任するも、羽田内閣は2ヶ月で退陣に追い込まれた。改革の会は、高志会(海部俊樹代表)、新党みらい(鹿野道彦代表)、自由党(柿澤弘治党首)と共に自由改革連合を結成するが、同年12月に解散。新進党の結党に参加した。1996年(平成8年)、新進党を離党し、兄の由紀夫らと旧民主党を結党。副代表に就任する。1998年(平成10年)、民政党の合流により民主党が結成され、東京都連初代会長に就任。しかし、党の路線をめぐって徐々に兄弟間で対立が目立つようになり、1999年(平成11年)に民主党を離党。同年、東京都知事選挙に立候補し、不出馬を表明した青島幸男知事の後継指名、及び民主党・生活者ネット・改革クラブの推薦を受けたが、石原慎太郎の後塵を拝し、2位で落選した。都知事選落選後は民主党からは距離を置き、2000年(平成12年)自民党に復党する。同年の第42回衆議院議員総選挙では、東京ブロック比例単独候補として出馬し、東京2区で深谷を支援した。しかし、鳩山は当選したが、深谷は通商産業大臣在任中でありながら比例復活が出来ず、落選となった。2002年(平成14年)、衆院議院運営委員長に就任。2003年(平成15年)10月、衆議院永年在職議員の表彰を受ける。同年の第43回衆議院議員総選挙では、突然「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表の菅直人の選出選挙区である東京18区に国替えして出馬。小選挙区では落選したが、比例東京ブロックで復活当選した。2005年(平成17年)、第44回衆議院議員総選挙から、母方の祖父・石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡6区へ国替えし、古賀一成を破って当選した。2006年(平成18年)9月、自由民主党総裁選挙への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を断念。そのため、麻生太郎を支持した。2007年(平成19年)、安倍改造内閣で法務大臣に就任し、13年ぶりの入閣となった。まもなく、安倍首相が病気で辞任し、それによる自由民主党総裁選挙では、麻生太郎自由民主党幹事長の推薦人代表を務めた。福田康夫内閣でも法務大臣に再任され、12月7日の死刑執行では、日本国憲法下では初めて執行対象となった死刑囚の氏名を記者会見で公表し、行刑密行主義として批判されてきた死刑の情報公開を実施した。以降の死刑執行でも、署名・刑執行後に死刑囚の氏名の公表を、法務大臣が記者会見で発表している。その前の10月29日、日本外国特派員協会の講演で2002年のバリ島爆弾テロ事件に関連し「私の友人の友人がアルカイーダだ。二、三年前は何度も日本に来ていた。彼はバリ島の爆破事件に関与していた。私は、彼の友人の友人ですけど、バリ島の中心部は爆破するから近づかないようにというアドバイスを受けていた」と発言し、講演後の法務省で記者会見にて「これは、私の趣味であるチョウの同好の士には海外を含めて大勢の仲間がおり、『その中にはテロ組織の構成員と思われる者がいて、日本にも入ってきたことがある旨や、バリ島の爆破事件にも関与していた』旨の話を、同好の士である友人から聞いたことがありましたので、これを友人の話として申し上げたものであり、私自身は、この組織の者と思われる者と友人でもなければ、面識を有するものでもありません。また、この友人の話の真偽について確認しているものではありません。なお、私がこのような話を聞いたのは、バリ島爆破事件の3、4ヶ月後のことであって、事件の発生前に爆破計画について知っていたということはありません」と釈明した。翌30日、内閣総理大臣福田康夫から「そういうこと(テロ)を防止する役目だからしっかりやるように」と注意を受ける。また、国民新党代表代行の亀井静香が「警察庁は法相から事情聴取をしていない。国家公安委員長は何をやっているのか。(法相を)放っておくのはふまじめすぎる」と発言するなど、事実関係の解明を求める声もおき、町村信孝は文書による事実関係の報告を鳩山に指示。10月31日、衆議院法務委員会において、保坂展人から当該人物がテロ組織と無関係だった場合どうするのか問われた鳩山は、「人の名誉を著しく傷つけるならば、それは私は何らかの責任をとらなければならない」と衆議院法務委員会にて答弁した。また、野党議員の加藤公一から「国家公務員は告発義務(刑事訴訟法239条2項)があると思うが、鳩山は友人の友人の告発を行ったか」という趣旨の質問を受け、それに対して鳩山は「しておりません」「警察にも入管にも防衛庁にも、公安調査庁に言ったかどうかはよく覚えておりませんが、かなり厳しく言いました」と述べ、また加藤から入国管理局の誰に何を話したか問われると「それは、私の記憶にはありません。事務所で調べて、当時の名刺等が残っておれば明らかになると思います」と述べた。11月6日、法務委員会で「入国管理局長から、交換した名刺、もらった名刺がありまして、日付も書き入れてありましたので、このときに入管局長と会ったことは間違いありません」「警察とか防衛省についてはそうした名刺等が出てきませんので、だれにいつどうしたということが今のところはっきりしておりませんが、今後も事務所の過去の書類等はいろいろと調べてみようと思っております」と述べた。2008年(平成20年)2月13日、法務省内で開かれた検察長官会同で、鹿児島県の志布志事件について「冤罪と呼ぶべきではないと思う」と発言し、志布志事件は冤罪にはあたらない、との認識を示した。また、鳩山は「冤罪という言葉は、全く別の人を逮捕し、服役後に真犯人が現れるなど百パーセントぬれぎぬの場合を言い、それ以外の無罪事件にまで冤罪を適用すると、およそ無罪というのは全部冤罪になってしまうのではないか」と釈明した。翌日の衆議院予算委員会で、社民党の保坂展人議員からこれについて質問を受けた時、鳩山法相は「元被告が『冤罪が晴れた』とおっしゃるのを、私は否定する何の根拠も持っていない。私の発言で元被告の方々が不愉快な思いをしたなら謝罪しなければならない」と回答した。さらに「今後は公式の場で冤罪という言葉は使わない」「冤罪は意味が不確実だ」とも述べた。この件については、町村信孝内閣官房長官も鳩山に「不適切な捜査は是正しなければいけないと強調すべきだった」と苦言を呈している。法務大臣としては、それまで死刑執行は執行の間隔が長く、国会閉会中や内閣改造直前に行われる傾向があったため、8月・9月・12月が死刑執行が多い月として一般的に認知されていたが、鳩山は国会開会中である2月・4月・6月と2ヶ月間隔で死刑執行を命令したことが注目された。特に、6月17日の執行では、弁護団が再審に向けた準備を進めて鳩山に執行延期を求める要望書を提出していた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の死刑囚・宮崎勤について「事件の残虐性を考えると執行を猶予することはできない」として死刑を執行した。このときの死刑執行について、6月18日付の朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」が、前日に将棋棋士の羽生善治が永世名人称号を獲得したことを引き合いに出し、鳩山を「永世死刑執行人。またの名、死に神」と表現。これに対し、6月20日の閣議後の記者会見で「極刑を実施するのだから心境は穏やかではないが、どんなにつらくても社会正義のためにやらざるを得ない」「司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。記事は執行された方に対する侮辱だ」と抗議し、「そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が、世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞社を批判した。兄の由紀夫も「弟は法に従っただけ。私も死に神の兄といわれては困る」と弟を擁護した。朝日新聞の「死に神」表現に対しては、「法務大臣は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」「羽生名人にも失礼」など、死刑賛成派市民から1,800件あまりの抗議文が、朝日新聞社に送られた。死刑賛成派団体の全国犯罪被害者の会は、鳩山に対する朝日新聞の「死に神」発言は、犯罪被害者や遺族を侮辱する内容であるとして、朝日新聞社に対して抗議文書を送付。最終的に、全国犯罪被害者の会の三度に渡る公開質問状に朝日新聞社は、8月2日付けの朝日新聞朝刊社会面に経緯を掲載した上で、「適切さを欠いた表現だったと言わざるを得ず」と謝罪する回答を提示。犯罪被害者の会も朝日新聞社の回答に納得し、抗議をやめた。5月、津島派の役員人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。9月に発足した麻生内閣では、総務大臣兼内閣府特命担当大臣(地方分権改革)に就任。2008年(平成20年)、日本郵政はかんぽの宿全施設を一括でオリックス不動産に約109億円で売却することを発表。しかし、一括売却先が郵政民営化を検討した当時の総合規制改革会議議長だった宮内義彦が最高経営責任者(CEO)を務めるオリックスグループの企業であったことから、鳩山は「オリックスは立派な会社だが、譲渡に国民が納得するか。出来レースと受け取られかねない。率直にまずいと思う」と、売却の前提となる「日本郵政の会社分割」についての総務大臣認可に極めて慎重な姿勢を示した。鳩山は入札に関する資料を日本郵政に提出を求め、総務省が調査した結果、元々オリックス不動産に有利な取り計らいがなされていたのではないかとの疑念が生じ、日本郵政の西川善文社長はかんぽの宿のオリックス不動産への一括売却断念を表明。鳩山が資産の譲渡期限の見直しや地元への施設ごとの売却を視野に入れて再検討を行う事を表明した。2009年(平成21年)、2009年(平成21年)2月、東京中央郵便局の再開発工事(超高層建築物「JPタワー」の新築・旧庁舎の一部保存)について、「重要文化財の価値を有する建物を再開発で取り壊すのは、トキを焼き鳥にして食べるようなもの」と答弁し、同再開発計画の見直しを明言した。吉田鉄郎の設計による東京中央郵便局旧庁舎は、歴史的価値のある建築であるとされ、建築の専門家から重要文化財としての指定と全面保存が求められていた経緯があった。3月4日、鳩山は「東京中央郵便局を重要文化財にする会」の訪問を受け、「東京中央郵便局を重要文化財として保存する要望書」を受け取った。その席において同会会長の前野まさる東京芸術大学名誉教授は「有識者の報告を踏まえて事業を計画した」という日本郵政側の説明は事実と異なることを主張。「有識者は全面保存を求めていた。正しく踏まえれば高層ビル計画には至らなかった」と述べた。「老朽化」が建て替えの理由にされていることについて、耐震補強工事で庁舎の構造は建築基準法の強度をほぼ満たしていることなどを説明した。これを受け、鳩山は会談後に現地を抜き打ち視察。重機に削られて散らばった外壁タイルをみて「このままではどんどん壊される。一時的にせよ工事は止めるべき。日本郵政は強引」と述べた。日本郵政の西川社長は、再開発を計画どおりに進めていく方針であることを、3月3日の記者会見において述べていたが、3月9日には日本郵政の公式見解として、旧庁舎の保存部分を拡大する方向で再開発計画の見直しがされることが発表された。これを受け鳩山は、3月10日の記者会見において「トキを焼き鳥にして食わないで、剥製が残るような設計変更をお願いし、再開発をしてもらう」と発言。旧庁舎の保存部分を拡大した上で再開発を進めるとする日本郵政の提案に同意した。4月23日、地デジのイメージキャラクターを務めていた当時SMAPのメンバー・草彅剛が、公然わいせつ罪で現行犯逮捕されたことを受け、責任者の総務大臣としてテレビのインタビューで「めちゃくちゃな怒りを感じている。なんでそんな者をイメージキャラクターに選んだのか。恥ずかしいし、最低の人間だ。絶対許さない」と発言。その直後から批判が殺到し、翌24日にこの発言を撤回して「最低な行為と言い替えたい。彼には出直して頑張ってほしい」と訂正した。しかし、公式ホームページへの7000以上のコメントや、フォークシンガーの松山千春による批判がされた。5月8日、総務大臣として日本郵政の取締役認可権を持つ鳩山は、西川社長の進退に初めて言及。その後、西川氏の後任探しにも動き、5月27日には鳩山と懇意な渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長兼主筆から西室泰三東京証券取引所会長でめどがついたとの連絡を受けた。しかし、5月18日の指名委員会で西川の続投が決定。これは、西川の進退問題が浮上した春に、財界の中枢で後任候補の人選が極秘裏に進んでいたものの、リストに挙げられた候補者が相次いで固辞。財界側でも西川後任を画策したが決まらず、有力な後任を見つけられなかったことで、西川の続投やむなしとの判断につながった。これに鳩山は、「かんぽの宿」売却問題などを理由に認めない意向を表明。しかし、与党内では西川氏の続投を望む声が広がっていたことから、麻生首相は官房長官の河村建夫を介して、鳩山・西川2人の和解を画策。河村は「西川に土下座でも何でもさせるから妥協してくれ」と懇願したが、鳩山は譲らなかった。6月12日、麻生首相は首相官邸に鳩山を呼び、西川氏続投の方針を示したが、鳩山氏は受け入れを拒否して辞表を提出。同日午後2時から鳩山と再度会談したが、首相は鳩山から出された辞表を「残念だがやむを得ない」と受理し、事実上の更迭となった。鳩山氏はこの後、記者団に対し「正しいことが通用しないのなら、潔く去る」と辞任の理由を説明し、首相の判断を「間違っている」と批判した。2010年(平成22年)3月15日、自民党に離党届を提出し、同月24日の党紀委員会で了承された。離党後の内閣総理大臣指名選挙では、無所属ながら衆院では唯一新党改革代表の舛添に投票。2011年(平成23年)6月、派閥横断型の政策グループ「きさらぎ会」を設立。8月30日、内閣総理大臣指名選挙では一転して古巣の自民党の谷垣禎一総裁に投票した。また、自身も無所属の中島正純より一票を得た。その後、自民党に復党届を提出するが、党内の反発で先送りされる。2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙には無所属で出馬し、自民党の推薦を受けて12選した。翌日、安倍晋三総裁宛ての復党願を同党福岡県連に提出。その後、党紀委員会にて復党が了承され、11日後の12月28日に2年ぶりに復党した。2014年(平成26年)12月14日の第47回衆議院議員総選挙には自民党公認で出馬し、13選の当選を果たす。晩年は人工透析などで入退院を繰り返しており、2016年(平成28年)6月1日に衆議院本会議へ出席したときは、その痩せ細った姿から健康不安が囁かれた。この時は、太り気味だったことから、健康管理の一環として軽い運動をしたり、「炭水化物抜きダイエット」をしたことで体重が落ちたと、あくまで否定していた。しかし、6月20日に自宅で吐血し、都内の病院に救急搬送。検査の結果、十二指腸潰瘍であり、医師の診断では、輸血をして、薬を飲めば治るということであったが、6月21日に再び吐血。午前11時35分、十二指腸潰瘍による出血性ショックのため東京都内の病院で死去。享年67。没後、正三位に叙するとともに、旭日大綬章を追贈された。


鳩山邦夫(1948~2016)_f0368298_22565152.jpg

鳩山邦夫(1948~2016)_f0368298_22565391.jpg

鳩山邦夫(1948~2016)_f0368298_22565233.jpg

内閣総理大臣を務めた鳩山一郎を祖父、そして鳩山由紀夫を兄に持ち、自身も法相や総務相などを歴任した鳩山邦夫。華麗なる鳩山家の息子として、早くからホープとして期待されたが、自民党の離党と復党を繰り返したことから、「政界渡り鳥」と揶揄された。また、後先考えずに発言することから度々批判の的となり、「友人の友人がアルカイダ」「私は白い鳩だが、兄は黒い鳩」、東京中央郵便局の局舎立て直しで古い建物の外装を残せと指示したが、視察に訪れたら壊されていたのを見て「壊してるじゃないか。誰だ壊したのは」と激怒するなど、政治家としては致命的な点が多々あった。一方、多彩な趣味を持つことでも知られ、その一つである蝶は少年の頃から愛好し、蝶の採集家として政界でも著名であった。料理の腕もプロフェッショナル級とされ、得意料理はチャーハンだった。妻となった女優の高見エミリーからは、「本当に心のきれいな人で、いつまでも少年のような、純粋な心を持った人でした」と評された鳩山邦夫の墓は、東京都文京区の護国寺にある。五輪塔の墓には「鳩山家」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「淨勲院慈愛邦憲大居士」。

by oku-taka | 2023-02-01 22:58 | 政治家・外交官 | Comments(0)