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塚田正夫(1914~1977)

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塚田 正夫(つかだ まさお)

棋士
1914年(大正3年)〜1977年(昭和52年)

1914年(大正3年)、東京府東京市(現在の東京都文京区)に生まれる。1927年(昭和2年)、花田長太郎に入門。1928年(昭和3年)9月、奨励会創設に二段として参加。1932年(昭和7年)、四段に昇段。東京棋界の新鋭となり、塚田、坂口允彦、建部和歌夫は「昭和の三銃士」と呼ばれた。1939年(昭和14年)、皇軍慰問団の将棋団長となり、上海や南京を訪問。戦後まもなくからは、詰将棋作家として盛んに一般向けの棋書を出版。プロ棋士による詰将棋作品集の草分け的存在となった。塚田は終盤力養成に詰将棋は欠かせないと主張したことで、実戦型詰将棋という概念を生み出し、終盤力養成=詰将棋という分かりやすい図式が生じ、これによって詰将棋に特化した棋書は詰将棋愛好家にも大いに受け容れられた。1947年(昭和22年)、戦前から無敵を誇っていた木村義雄を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。1948年(昭和23年)の名人戦では、大山康晴の挑戦を退けて防衛した。また、朝日新聞社主催「塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負」が行われたが、こちらも3勝2敗で勝利する。しかし、1949年(昭和24年)の名人戦で木村に敗れて失冠。この名人戦の最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「済寧館の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い投了が話題となった。1953年(昭和28年)1月、九段位を取得した直後に、前年に引退していた木村と、読売新聞社主催の「木村・新九段三番勝負」(前年までの名人九段五番勝負の代替棋戦)を行い、二連勝した。一方、九段戦(後の十段戦、現在の竜王戦)では前年の初獲得後に3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績で、初の「永世九段」となる。しかし、1956年(昭和31年)の九段戦防衛で保持していた「タイトルとしての九段」を失冠。ただし、1958年(昭和33年)に段位としての九段昇段規定が新設され、大山康晴と升田幸三が九段に昇段し、永世称号に基づき「段位としての九段」を称していた。また、1960年(昭和35年)の第1期王位戦、1962年(昭和37年)の第1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。名人失冠後の順位戦A級では、4度の挑戦者決定プレーオフで敗退する等、再度の名人挑戦・復位は果たせず、第26期(1971年度)には2勝6敗でクラス10位(最下位)となり、実力制名人経験者として史上初のB級1組降級となった。第27期(1972年度)B級1組では7勝4敗でクラス2位の成績を挙げてA級に復帰し、60歳まで在籍した。1974年(昭和49年)、将棋会館建替え問題のために加藤治郎会長を始め全理事が退任し、その後任として将棋連盟会長に就任。在任中には名人戦問題で揺れる将棋界の舵取りに尽力した。1975年(昭和50年)、紫綬褒章を受章。1977年(昭和52年)12月13日、塚田は病気で入院していたものの、昇降級リーグ戦1組(順位戦B級1組)に参加。とても対局ができる状態ではなかったものの、「花村(元司)くんが好調(5勝1敗)なので、不戦敗では本人にも周囲にも申しわけない」と言い、一時退院して対局にはげんだ。結果として花村には敗れ、これが公式戦最期の対局となる。同年12月30日、現役のまま死去。享年63。没後、勲四等旭日小綬章を追贈。さらに、将棋界でただ一人の「名誉十段」を贈られた。1989年(平成元年)には、升田幸三に贈るために「実力制第○代名人」の称号が制定されたため、塚田に実力制第二代名人が贈られた。


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A級在位26期の記録を持ち、詰将棋の世界においても巨匠として君臨した塚田正夫。当時無敵を誇り、9年間名人を在位していた木村義雄を破って名人位を獲得。翌年、大山康晴の挑戦を4勝2敗で退けて防衛し、戦後の将棋界を牽引する騎士となった。特に「東の塚田、西の升田」と並び称された同世代の升田幸三とは仲が良かったが、酒を飲んだ際、升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、塚田が頭にきて「何で俺が月だ」と口論になったことや、升田の父が亡くなった際、塚田が「しょうがないじゃないか」と言ったことに怒って、その後の対局でコテンパにしたなど、微笑ましいエピソードが多くある。また、将棋界では、先輩が後輩におごり、おごられた後輩は自分が「先輩」になったら後輩におごる、という文化に対し、「後輩棋士であっても盤上で戦う相手。おごるのは間違い」考えから必ず割り勘を通したり、自らが病身ながらも、対戦相手が好調であるから不戦敗では申しわけないと、病を押して対局に挑むなど、美しい勝負師哲学を持つ人でもあった。後世に名を残す棋士の中でも、多分に逸話を持つ塚田正夫の墓は、東京都文京区の善仁寺にある。墓には「塚田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「棋心院釋正秀居士」。また、十三回忌に将棋駒の形をした墓碑が境内に建てられ、塚田作による九手詰めの詰将棋作品が刻まれている。

by oku-taka | 2023-01-29 01:44 | スポーツ | Comments(0)