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二代目・広沢虎造(1899~1964)

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二代目・広沢 虎造(ひろさわ とらぞう)

浪曲師
1899年(明治32年)〜1964年(昭和39年)

1899年(明治32年)、東京府東京市芝区白金(現在の東京都港区白金)に生まれる出身。本名は、山田 信一。旧姓は金田。小学5年生のときに友人宅で聴いた初代木村重松の『慶安太平記善逹道中附』に魅せられ、長兄に頼み込んで寄席に連れて行ってもらうようになり、自らで浪花節をモノマネするほど好むようになる。中学卒業後、兄が勤めていた共立電気電線(現在のアンリツ)に就職。電気工事の職人として働くも、浪曲師の夢が諦められず、東家小楽燕を模した芸名「東川春燕」の名で天狗連に混じり、休日の風呂屋、会社の慰安会などで稼ぐようになる。また、当時近所に住んでいた講釈師の旭堂麟生のもとに通い、稽古をつけてもらうようになる。19歳のとき、地元の初代木村重松や東家小楽燕に弟子入りを志願するも断られ、失意のうちに仕事を退職。次兄のいる大阪に下り、薬品会社に勤める。その後、同僚と円城亭という端席に行ったところ、出演者が急病で倒れたことから、同僚に勧められて三代鼈甲斎虎丸の『安中草三郎』と三河家円車の『ドンドン節』を披露。大喝采を浴び、これが縁で京山円勝と親しくなり、円勝のすすめで浪花節の師匠を紹介してもらい、弟子入りを志願する。しかし、円勝に笹本という興行社へ売られてしまい、しばらくは商店街やお祭りの余興と街頭で大道をしていたが、やがて夜逃げを決め込む。その後、かつて旭堂麟生のもとで親しくなった浪曲師・冨士月子を訪ね、月子から広沢虎春を紹介される。以降、広沢館に住込みで下足番として働き始める。1918年(大正7年)、当時関西浪曲界の巨頭であった二代目広沢虎吉に認められて弟子入り。広沢春円を名乗り、広沢天勝、広沢天華を経て、1922年(大正11年)に真打となって二代目広沢虎造を襲名した。その後、徴兵検査で麻布第三連隊に入営したのを機に帰京。また、ある公演で助演した女流呑気家の綾好が、虎造の浪花節と男っぷりに惚れ込み、娘のとみと結婚。妻の家と養子縁組をして山田信一となった。結婚後は、師匠譲りの関西節から、中京節の鼈甲斎虎丸や関東節の木村重松らの節回しを独自に取り入れた節回しに節を作り変え、後に虎造節と呼ばれるようになる。持ちネタは『国定忠治』、『雷電爲右エ門』、『祐天吉松』、『寛永三馬術』など多岐に渡り、中でも人気を博したのが、講談師・3代目神田伯山の十八番を習得した『清水次郎長伝』であった。とりわけ森の石松を題材にし、節調を短的に表現して誰にも馴染めるメロディと、ケレン(笑い)を交えた巧みな会話で、老幼男女を問わず、初めて浪曲を聴く者をも傾倒させ、日本中にその名声を高めた。特に「呑みねえ食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」の「森の石松三十石船道中」のフレーズは大ウケし、ラジオ放送の普及も相まって、国民的な流行語となった。1933年(昭和8年)、世田谷碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため移動中であったタクシーが電車と正面衝突。虎造のマネージャーが即死、運転手の助手も危篤、運転手は2週間の重傷、虎造も瀕死の重傷を負うものの、一命を取り留めた。当時、浪曲師が新聞に載る事が少なかったため大変話題になり、この一件以来、虎造の名は東京中に知れ渡ることとなり、浪曲番付の上でも前頭筆頭に据えられた。1937年(昭和12年)、浅草国際劇場で独演会を開催。4日間昼夜行い、延べ4万人を動員。翌年には、後楽園球場でも独演会を開催した。1939年(昭和14年)、日活『清水港』で映画デビュー。当時、浪曲師が映画に出る際は「出語り」として浪曲のみの登場であったが、役者としての動きが可能とみたマキノ正博監督による大抜擢で、「三下の虎三」というコミカルな役柄を演じた。以降、東宝『初笑ひ国定忠治』、日活『続清水港 代参夢道中』など積極的に映画へ出演した。しかし、1940年(昭和15年)6月に九州へ興行に出かけた際、地元の興行師から新興キネマの映画に出演を依頼され、これを快諾。当時、虎造の映画出演は吉本興業が行っていて契約上、日活、東宝以外の映画には出演できない状態にあったため、8月15日に山口登(二代目山口組組長)と九州籠寅興行部の抗争に発展し、死傷者を出す大惨事となり、警視庁が仲介に入って手打ちとなった。この事件は、一浪曲師の興行権から組同士の面子を賭けた抗争として世間を騒がせることになった。戦後にも全盛は続き、ラジオの民間放送の登場によってラジオ浪曲ブームの牽引役となる。特に、1951年(昭和26年)からスタートした連続読み番組(ラジオ東京の俗称)「虎造アワー」を長年担当し、ラジオ東京開局翌日の同年12月26日には『次郎長伝』のうち「石松代参」で34%を誇り、民放で独走トップの高聴取率を獲得した。しかし、1959年(昭和34年)に脳溢血で倒れ、言語障害を発症。リハビリに取り組むも回復せず、1963年(昭和38年)の引退興行をもって浪曲界から身を引いた。1964年(昭和39年)12月29日、死去。享年65。


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「虎造節」と呼ばれただみ声の名調子で一世を風靡した、二代目広沢虎造。関東節の張りと関西節の低音の節回しを合わせたその発声は聴く者を魅了し、代表作『清水次郎長伝』の「旅ゆけば駿河の道に茶の香り〜」は当時多くの人が真似をした。虎造亡き後、浪曲の世界は現在に至るまで冬の時代が続くことになり、浪曲界にとっては大きな損失となってしまった。二代目広沢虎造の墓は、東京都文京区の蓮華寺にある。墓には「先祖累代之墓 山田」とあり、右側面と左側に墓誌がある。戒名は「法壽院悟道日信居士」。

by oku-taka | 2023-01-14 00:48 | 演芸人 | Comments(0)