人気ブログランキング | 話題のタグを見る

長谷川如是閑(1875~1969)

長谷川如是閑(1875~1969)_f0368298_19003736.jpg

長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん)

ジャーナリスト
1875年(明治8年)〜1969年(昭和44年)

1875年(明治8年)、東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)に生まれる。本名は、山本 萬次郎。生家は材木商で、1881年(明治14年)に深川区万年町公立明治小学校(現在の江東区立明治小学校)へ入学。しかし、翌年に父が材木商をやめて浅草に花屋敷を開業したことから、下谷区御徒町私立島本小学校へ転校。幼年時代は浅草で育つ。1884年(明治17年)、曾祖母の養子となり長谷川に改姓。1885年(明治18年)、本郷区本郷真砂町(現在の文京区本郷)にあった坪内逍遥の塾に通い、続いて1886年(明治19年)小石川区小日向にあった中村正直の同人社にも通ったが落第している。その後、神田淡路町の共立学校に一時期在籍し、1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)予科に転校。同じ頃、東京英語学校にも入学している。1890年(明治23年)、東京法学院予科(英吉利法律学校予科から改称、後の中央大学予科)に転校したが、入学後まもなく同科は廃止となる。当時、東京英語学校の教師には杉浦重剛や志賀重昂がおり、その影響もあって陸羯南が経営と論陣を仕切る新聞『日本』を熱読するようになった。1892年(明治25年)、神田で起きた大火で東京英語学校校舎が類焼して休校となり、国民英学会に転学。1893年(明治26年)、東京法学院(中央大学の前身)英語法学科に入学。1896年(明治29年)、邦語法学科へ再入学し、1898年(明治31年)同校を卒業した。1903年(明治36年)、陸羯南の経営する日本新聞社に入社。1906年(明治39年)、陸羯南が隠退し、新社長となった伊藤欽亮が三宅雪嶺および古島一雄の退社を命じ、如是閑ら十数人もこれに抗議して日本新聞社を退社。1907年(明治40年)、雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加した。この頃から「如是閑叟」と号し、非常に多忙であった彼に対し、ある支配人が「せめてペンネームくらいは閑そうな名前を」ということで名付けてくれたものである。その後、鳥居素川の勧めで、1908年(明治41年)に大阪朝日新聞社へ入社。最初は小説を書いていたが、1910年(明治43年)4月から8月にかけてロンドンでひらかれた日英博覧会の取材特派員となって連載記事も手がけるようになった。1912年(大正元年)頃からコラム「天声人語」を担当。1915年(大正4年)、「夏の甲子園」の前身である全国中等学校優勝野球大会を社会部長として企画創設。1916年(大正5年)、社会部長となり、米価高騰の裏に横行していて米穀商の米の買い占めをスクープ。これが引き金の一つになって1918年(大正7年)の米騒動にまで発展した。8月25日、米騒動問題に関して関西新聞社通信大会が開かれ、これを報じた翌8月26日付夕刊(25日発行)の記事の一節に「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」と記した。文中の「白虹日を貫けり」という一句は、荊軻が秦王(後の始皇帝)暗殺を企てた時の自然現象を記録したもので、内乱が起こる兆候を指す故事成語であった。いつも原稿を点検していた社会部長の長谷川はたまたま所用で席を外していたので別のものが見たが「白虹」の故実を知らず、締め切り時間になったので意味がはっきりしないまま降版した。試し刷りを読んだ副部長が不穏当だと判断し、大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに刷り上がった3万部のうち1万部が出回った後だった。大阪府警察部新聞検閲係は、新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、筆者の大西利夫と編集人兼発行人の山口信雄2人を大阪区裁判所に告発し、検察当局は大阪朝日新聞を発行禁止(新聞紙法43条)に持ち込もうとした。関西では大阪朝日新聞の不買運動が起こり、さらに憤慨した玄洋社系の右翼団体「黒龍会」の構成員七人が通行中の大阪朝日新聞社の社長・村山龍平の人力車を襲撃し、村山を全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札をぶら下げる騒ぎまで発生した。また、後藤新平は右翼系の『新時代』誌に朝日攻撃のキャンペーンを張らせ、他誌も追従した。事態を重く見た大阪朝日新聞では10月15日、村山社長が退陣し、長谷川も朝日新聞社を退社。政治学者の大山郁夫らと、雑誌『我等』を創刊した。これは、日本における本格的なフリージャーナリストの始まりであった。東京帝大助教授であった森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの研究によって起訴された1920年(大正9年)の森戸事件においては、学問の自由・研究の自由・大学の自治を主張して、同誌上で擁護の論陣を張った。また、吉野作造、大山郁夫とともに、大正デモクラシーを代表するジャーナリストとして、大正から昭和初期にかけて、進歩的、反権力的な論陣を張った。この時期のこの手の著作として、『現代国家批判』『現代社会批判』『日本ファシズム批判』などがあり、中でもファシズム初期の段階で、他者に先駆けてファシズム批判を行った。しかし、1929年(昭和4年)には日ソ文化協会の会長となっている。同年、雑誌『我等』を『批判』と改題。1934年(昭和9年)の廃刊後は自由主義の宣伝啓蒙に努め、また『古事記』『万葉集』、本居宣長などの研究を通じて、当時の軍国主義・皇道精神の高揚に対して、日本人は古来から平和愛好的な民族であったと主張した。1936年(昭和11年)の二・二六事件に際しては『老子』を著し、また『本居宣長集』を編集している。さらに翌年の日独伊防共協定の折には岩波書店より『日本的性格』を刊行した。1939年(昭和14年)4月には国民学術協会の発起人に中央公論社の嶋中雄作らと名を連ね、民間アカデミーの試みとして注目される。戦後は民主主義の徹底化、国際平和確立の重要性などを唱える一方、1946年(昭和21年)には最後の貴族院勅選議員となり、日本国憲法の制定に携わる。議員としては交友倶楽部に属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。同年、帝国芸術院会員に選出される。1948年(昭和23年)、文化勲章を受章。1951年(昭和26年)、文化功労者に選出。1954年(昭和29年)、80歳を記念して友人・知人より小田原の地に「八旬荘」の居宅を贈られる。1969年(昭和44年)11月4日、腹痛を訴えて小田原市立病院に入院。同月11日午前11時17分、死去。享年93。


長谷川如是閑(1875~1969)_f0368298_19003858.jpg

長谷川如是閑(1875~1969)_f0368298_19003820.jpg

長谷川如是閑(1875~1969)_f0368298_19003975.jpg


日本におけるジャーナリストの草分け的存在である長谷川如是閑。明治・大正・昭和と三代にわたって活躍し、新聞記事・評論・エッセイ等の作品約3000本を残した。そのジャーナリズムの精神は、幼少期に様々な学校を転々としたことで培われた。材木商の子として生まれ、浅草で育ったことから、現実主義、合理主義、庶民感覚、ユーモアなどを重んじる職人気質を身につけ、小学生時代にイギリス思想を日本に紹介した坪内逍遙の塾、そして英米仏系の学校で学び、日本の主体性を重んじつつも自由国民主義の立場を主張する思想形成の確立に至った。米騒動、大正デモクラシー、第二次世界大戦と日本史の転換点に身を置き、その最前線で活躍したこの大人物のインタビュー映像を、今でもNHKは残しているというのだから驚きである。生涯独身を通し、酒も飲まず、煙草もやらず、気ままな性格で93年の長寿を全うした長谷川如是閑の墓は、東京都文京区の清林寺にある。墓地の一番奥地に鎮座している黒い御影石の墓には「長谷川如是閑墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「高徳院殿彰誉硯香如是閑大居士」。

by oku-taka | 2023-01-09 19:02 | 評論家・運動家 | Comments(0)