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伊東一雄(1934~2002)

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伊東 一雄(いとう かずお)

野球解説者
1934年(昭和9年)〜2002年(平成14年)

1934年(昭和9年)、東京都豊島区西巣鴨に生まれる。小学生の時に戦火を逃れるため千葉県市川市へ転居し、以後居住する。子供の頃から父親の影響で野球に親しみ、後楽園球場の東京巨人軍戦、神宮球場の大学野球に通い、スコアカード記入などをした。しかし、中学時代に来日したサンフランシスコ・シールズの試合を見てからは、一転してアメリカメジャーリーグへ興味が移る。1950年(昭和25年)、野球指導で来日していたジョー・ディマジオがオープンカーで銀座通りをパレードし、その際に白バイの間をすり抜け、オープンカーに飛び付き、並走しながら万年筆を差し出しディマジオにサインを懇請。その際、快く応じてもらったことで益々メジャーリーグに魅せられる。以降、進駐軍向けのラジオにかじりつき、独学で英語を学びながら大リーグ放送を聞くようになる。都立三高を経て、千葉大学文理学部に在学中、プロ野球解説者だった中澤不二雄に大リーグ情報をまとめて贈り、これを機に親しくなる。1959年(昭和34年)、中澤が太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)の初代会長に就任。中澤は伊東を秘書として指名し、パシフィック・リーグ職員となる。1965年(昭和40年)、この年から始まった「プロ野球ドラフト会議」で司会を務め、張りのある声で選手名を読み上げることで知られた。当時のドラフト会議では、選手名などが記された紙を掲示板に引っかけて表示しており、伊東の読み上げ直後は選手名の漢字表記が分からないため、独特の説明を行なっていた。例として、日本ハムファイターズから指名された芝草宇宙(帝京高)の「宇宙」を説明するために、英語が堪能な伊東は「ひろしは宇宙、大宇宙、コスモ」と例え、横浜大洋ホエールズに指名された蒲谷和茂(関東学院六浦高)の「蒲谷」を、「うなぎの蒲焼きの蒲」と説明している。最も物議を醸したエピソードとして、1972年(昭和47年)に大洋から4位指名された益山性旭(大阪福島商高)の表記を、「『性』はセックスの性!」と高らかにコールした件が挙げられる。この「セックス」はいわゆる性行為ではなく「性別」の意味。英語が堪能な伊東らしい表現ではあったが場内は大爆笑に包まれ、特に西本幸雄(当時の阪急ブレーブス監督)は椅子から転がるほど大笑いしていた。後日、伊東は「『性別の性』と言っておけばよかった」と、益山に対して謝罪している。1968年(昭和43年)、セントルイスのスポーツマンズ・パークで初めてメジャーの土を踏み、その後も、パ・リーグでの仕事の合間を縫って、メジャーリーグの全球場を巡るのが趣味となった。アメリカにおいてメキシコ人を戯画化したような風貌を持つ伊東は、ダリル・スペンサーから「パンチョ」のニックネームを与えられる。次第に球団関係者のみならず選手にもコネクションを広げていき「関係者に『パンチョ』の名を知らないものはいない」と言われた。1976年(昭和51年)、パシフィック・リーグの広報部長に就任。「広報の伊東・記録の千葉」として知られた。1985年(昭和60年)、テレビ東京系列で放映されたパ・リーグ情報番組「花のパ・リーグ情報」にレギュラーコメンテーターとして出演。また、プロ野球ドラフト会議の司会を務めていたことなどから、連盟職員としての活動以上にマスコミを通じて一般に広く顔が知られる存在となっていく。1991年(平成3年)、パシフィック・リーグを退職。同時にドラフト会議の司会も退いた。1992年(平成4年)、メジャーリーグジャーナリストとしての活動をスタート。また、ニッポン放送の『ショウアップナイタープレイボール』の司会や、フジテレビでの野球解説のほか、『プロ野球ニュース』に「PANCHO」名義でレギュラー出演し、メジャーリーグコーナーを担当した。1995年(平成7年)に、野茂英雄がメジャーに挑戦したことで、第2次メジャーブームが起こると、現地に飛んで持ち前の知識を披露する活躍を見せ、2000年(平成12年)に日本で行われた史上初の大リーグ公式戦(ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブス)でも解説者として存在感を示した。しかし、この頃に内臓の多発性癌に罹患し、入退院を繰り返す。『プロ野球ニュース』の後継番組『すぽると!』でも、継続してメジャーリーグコーナーを担当する予定で、『プロ野球ニュース』出演最終日には伊東自ら再登場を予告していた。しかし、体調を崩して一度も出演できず、弟子の福島良一が代役を務めた。2001年(平成13年)、イチローが出場したオールスターゲーム特集で『すぽると!』に復帰。大きく痩身した姿で深い椅子に座り、久々のスタジオ出演となった。しかし、5月に背中や肩に激痛を覚え、東京・信濃町の慶応病院に入院。精密検査の結果、癌細胞が全身に巡っていることがわかった。途中、千葉県市川市内の病院に転院。その後、再び慶応病院に戻ったが、2002年(平成14年)7月4日午後6時45分、心不全のため死去。享年68。


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「パンチョ伊東」の愛称で知られた伊東一雄。野球を愛し、中でもメジャーリーグを愛した彼は、休みを見つけては趣味の一環でメジャーリーグの球場を巡り、そこで得た大リーグの情報をメディアで伝え、日本にメジャーブームを巻き起こした。また、「ドラフト会議」で見せた独特な司会進行はドラフトの名物となり、「第1回選択希望選手」のフレーズは彼の代名詞となった。一方、同じく代名詞となったのが個性的なヘアースタイルで、評論家のマーティ・キーナートが、伊東が逝去した際の追悼文にて「明らかにカツラだったが、死ぬまでその髪型を貫いた男」と評したほど、多くのタレントがそのヘアースタイルをネタにした。パンチョ伊東の墓は、東京都豊島区にある法福寺墓地にある。墓には「伊東家之墓」とあり、墓誌はないが野球ボールのモニュメントが設置されている。

by oku-taka | 2023-01-02 23:17 | スポーツ | Comments(0)