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東郷青児(1897~1978)

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東郷 青児(とうごう せいじ)

画家
1897年(明治30年)〜1978年(昭和53年)

1897年(明治30年)、鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町(現在の鹿児島市稲荷町)に生まれる。本名は、東郷 鉄春(とうごう てつはる)。届け出は母親の私生児として神戸で出されている。幼少時に一家は東京に転居。中学時代から絵画の勉強をはじめ、旧制中学4年生の頃から日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。しかし、夢二の別居中の妻の岸たまきと懇ろとなり、たまきの家に宿泊中に夢二が現れ、野球バットを持って青児を追いかけ回すこともあり、青児がもとでのちに夢二とたまきは刃傷事件となったこともあった。1914年(大正3年)、青山学院中等部を卒業。前年にベルリンから帰国した作曲家の山田耕筰を知り、山田の東京フィルハーモーニー赤坂研究所の一隅を借用して制作。山田はベルリン滞在時にシュトルムと接触があり、帰国の際はドイツ表現派の版画などを持ち帰っていたことから、青児は強い影響を受ける。1915年(大正4年)、日比谷美術館で初個展を開催。『コントラバスを弾く』など前衛的な作品を発表した。この個展で有島生馬の知遇を得て、以後、有島に師事する。また、この頃「文章世界」「秀才文壇」などに“こま絵”を投稿。1916年(大正5年)、山田からヨーロッパの新芸術思想を啓示され、『パラソルさせる女』を第3回二科展に初出品。同作で二科賞を受賞する。1920年(大正9年)、永野明代と結婚。1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)までフランスに留学。タダイスムに接し、イタリアに未来派マリネッティを訪ねたが、絵画不在の未来派の理論にあきたらず、失意の状態でパリに戻り、リヨンの国立高等美術学校に学ぶ。ここで、パブロ・ピカソの前衛美術に触れる傍ら、女性的で優雅な作風のラファエロ・サンティにも強い影響を受ける。また、ギャラリー・ラファイエット百貨店のニース支店とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く。一方、パリで長男・志馬を儲けるも、窮乏生活から明代と子は1年半で帰国。その後、明代はダンサーやバーの女給をして家計を支えた。1928年(昭和3年)、帰国。第15回二科展に留学中に描いた『サルタンバンク』ほか作品23点を出品し、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。この頃、西崎盈子に初対面で結婚を申し込み、恋仲となるも、盈子の親の反対で一度別れる。また、中村修子と懇ろとなり、結婚を約束する一方、盈子とも関係を復活させる。1929年(昭和4年)、既婚のまま2月に中村修子と結婚披露宴を挙げる。3月には西崎盈子とメスで頸動脈を切り、ガス自殺をはかったが、救出される。事件後、心中の取材に来た宇野千代と同棲を始める。宇野の『色ざんげ』は東郷をモデルにした主人公が自らの情死未遂事件を語るというもので、のちに東郷は「この作品は最後の一行まで僕の話したことだ」と語っている。1933年(昭和8年)、明代と離婚。宇野と新居を建て、志馬を引き取り、明代が志馬を訪ねても会わせなかった。1930年(昭和5年)、ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳して刊行。1931年(昭和6年)、二科会に入会。1933年(昭和8年)、情死未遂事件の相手、盈子と関係が復活。宇野千代と別れ、妻の明代とも離婚成立。それとともに盈子との同棲がスタートした。1934年(昭和9年)、文士賭博事件により検挙される。1938年(昭和13年) 、二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。1939年(昭和14年)、盈子の妊娠がわかり、入籍。1940年(昭和15年) 、盈子との間に長女・たまみ誕生。戦時中、二科会は解散させらたが、戦後になると同会の再建に尽力し、美術団体のなかでもっとも早く再建に成功。以後、二科会の中心的画家となる。1951年(昭和26年)、歌舞伎座用の緞帳を制作。1957年(昭和32年)、壁画『創生の歌』で日本芸術院賞を受賞。同年と1959年(昭和34年)には、日本国際美術展で大衆賞を受賞した。1960年(昭和35年)、日本芸術院の会員となる。1961年(昭和36年)、二科会の会長に就任。以後、毎年秋の美術シーズンの幕開けに二科展開会の祭典を演出して話題を集めた。1969年(昭和44年)、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを授与される。1970年(昭和45年)、勲三等旭日中綬章を受章。1976年(昭和51年)には勲二等旭日重光章を受章した。1978年(昭和53年)4月24日、熊本県立美術館での第62回二科展のため熊本を訪れたが、4月25日にホテルで倒れ呼吸困難に陥る。熊本市の熊本大附属病院に搬送されたが、午後2時8分に急性心不全のため死去。享年80。没後、正四位と文化功労者を追贈された。


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昭和の美人画家として知られた東郷青児。柔らかな曲線で描かれた女性の長い手足と首、くびれた腰にしなやかな四肢の画風は「青児美人」と謳われ、ロマンチックで甘美的な女性像を確立した。また、青児自身「暮らしの中に溶けこみ、身近に親しまれていた分野での仕事をフィーチャーしたもの」にしたいと、本や雑誌、包装紙にデパートのエレベーター扉と、誰もが見て手にできる物を次々と手がけ、自らの作品を身近なものとした。その一方、艶福家としても知られ、度々女性スキャンダルを巻き起こした。晩年は派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた東郷青児の墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。墓には「東郷家之墓」とあり、左側に「東郷青児之碑」、右側に墓誌と略歴を刻んだ碑が建つ。戒名は「青濤院殿釋鉄真居士」。

by oku-taka | 2023-01-01 23:03 | 芸術家 | Comments(0)