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福永武彦(1918~1979)

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福永 武彦(ふくなが たけひこ)

作家
1918年(大正7年)〜1979年(昭和54年)

1918年(大正7年)、福岡県筑紫郡二日市町大字二日市に生まれる。父は三井銀行に勤務し、横浜・福岡と転勤を繰り返した。1925年(大正14年)4月、弟の文彦を出産したばかりの母が産褥熱で死去。母を失った経験は、福永の人生に大きな影響を与えた。1926年(大正15年)6月、父が東京本店の勤務となり、福永も東京へ転居。1930年(昭和5年)4月、東京開成中学校に入学。同期には生涯の友となる中村真一郎がいた。この頃、夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎らの作品を読み、将来は作家となることを志した。1934年(昭和9年)4月、第一高等学校文科丙類に入学。一高では寮の部屋を部活動ごとに割り振っていたため、弓術部に入部した福永は、弓術部があてがわれていた本郷向ヶ丘の向陵中寮五番に入室した。1935年(昭和10年)4月、来嶋 就信(きじま なりのぶ)が入室。福永は一つ下の後輩である来嶋と生活を共にする中で、次第に彼への愛を育んでいった。寮生の間でも、福永が来嶋を愛していることは、広く知れ渡る事実となっていたが、おとなしく無口な来嶋にとって、福永のひたむきな愛は恐怖であり、福永も来嶋も共に苦しみ抜くこととなる。1936年(昭和11年)3月末、弓術部は例年の合宿で、静岡県田方郡戸田村にある一高合宿所に滞在。ここで福永は来嶋とじっくり話したが、高尚な福永の言い分は通じず、合宿が終わると親しく口を利く機会も訪れなかった。愛の挫折を味わった福永は、一高内の新聞や会報に、この経験を作品化して次々と載せ始めることとなる。1935年(昭和10年)9月27日、寮新聞『向陵時報』に原稿用紙7枚少しの短篇「ひととせ」を「水城哲男」の筆名で発表。内容は全能の語り手が、二人の学生が話しながら歩いている場面を俯瞰して見せるというもので、片方の学生は年下の学生に振られ、もう一人の学生ともう一度友達になりたいと思っているが、相手は「こんな我儘な奴はちつと苦労するがいい」と思っている、というものだった。更に、1ヶ月後の10月21日には「眼の叛逆」を発表。これは女性が「私」の一人称で語るもので、「私」が愛する年下の少年の眼に、かつて愛して裏切った男と同様の「叛逆」を見出し、「私は我儘だつた」と自省する内容だった。連続して発表されたこの2篇は、いずれも年少の者を愛し破れていくという内容の作品であり、1936年(昭和11年)2月1日には、筆名を「水城哲男」から「水上愁己」に変えるのみで、再び同じ題材を扱った「絶望心理」を『向陵時報』へ発表。「俺」は自らの愛した年少の少年のために悪魔に魂を売るが、やはりその愛を受け入れてはもらえず、最後には悪魔さえもいない孤独の世界へ迷い込んでしまう、という内容であった。1936年(昭和11年)6月、弓術部会報の『反求会会報』に詩「ひそかなるひとへのおもひ」を発表するのとほぼ同時に、『校友会雑誌』に本名で「かにかくに」を発表。これは原稿用紙90枚弱の中編小説で、登場人物の氷田晋が藤木忍と知り合うが次第に藤木の心は氷田から離れていき、共に伊豆へ旅行へ行ってぎこちない時を過ごした末に、氷田は服毒自殺を遂げるという筋であった。こうした作品群は、後に長編小説『草の花』へと結実することになる。1937年(昭和12年)3月、一高を卒業。父の勧めで東京帝国大学法学部を受験するが失敗。再受験までの1年は、早稲田大学演劇博物館に通ったり、東京外国語学校でロシア語を学んだりして過ごした。1938年(昭和13年)1月8日、勉強のため滞在していた埼玉県南埼玉郡清久村の伯父の家で、扁桃腺炎から敗血症を併発して来嶋が急死。深夜に訃報を受けた福永は、9日に汽車で清久村へと駆けつけ、来嶋の葬儀に出席している。4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学。東大では清水晶や登川尚佐(直樹)と『映画評論』の同人となり、多くの映画評論を執筆した。1941年(昭和16年)、東大を卒業。社団法人日伊商会を経て、召集の危険から逃れるために、1942年(昭和17年)5月から参謀本部十八班での暗号解読の仕事に従事するようになる。この頃、アテネ・フランセにフランス語の勉強に来ていた山下澄(原條あき子)と知り合い、夏には彼女のほか、中村真一郎、加藤周一、白井健三郎、窪田啓作、中西哲吉、山崎剛太郎、小山正孝、枝野和夫らと「マチネ・ポエティク」を結成。数編の定型押韻詩を発表した。12月、召集令状が届き、検査を受けることになるが、間接撮影で胸部に異常があると診断されて再検査に回され、そこで以前に受けた盲腸炎手術の際の腹帯を見た軍医に「痛いか」と尋ねられ、「痛い」と答えたことで召集を解除された。1943年(昭和18年)2月、発作性頻脈症のため参謀本部の仕事を辞し、退職した父が移住した神戸の家を拠点として、京都や奈良の古寺を訪ねたり、倉敷の大原美術館へポール・ゴーギャンの絵画を見に行ったりするようになる。1944年(昭和19年)2月21日から日本放送協会国際局亜州部に勤め始め、9月28日には澄と結婚。しかし、1945年(昭和20年)2月に急性肋膜炎で倒れ、出産のため帯広へ帰った妻の実家へ疎開。5月12日から7月7日までは帯広療養所に入院している。7月7日、長男・夏樹が生まれた。1946年(昭和21年)4月、日本放送協会を辞職。北海道庁立帯広中学校で英語を教え始める。しかし、肺結核に罹患していることが判明すると、澄は「(福永との)約束はすべて取り消す」「自殺する」と主張し始め、家庭は崩壊の危機に陥る。1947年(昭和22年)10月には胸郭成形手術を受けるため上京し、東京都北多摩郡清瀬村の国立東京療養所へ入所。この年に中村信一郎・加藤周一との共著『1946 文学的考察』のほか、『ボオドレエルの世界』を刊行。左胸部整形術を受けた翌年には初の短編集『塔』、詩集『ある青春』を刊行し、戦後文学者として出発した。1949年(昭和24年)7月、睾丸結核が発覚。腸結核及び咽頭結核の併発も判明。一時はよりを戻す提案をしていた澄も力尽き、1950年(昭和25年)12月に協議離婚した。長い間の絶対安静を余儀なくされた福永は自殺の観念に囚われるようになり、『草の花』の原型となる中編小説「慰霊歌」を執筆し、200字詰めの原稿用紙にして374枚を書き上げた。身体の状態は思わしくなく、この「不自然な恰好」での無理な執筆のために背中に水が溜まり、医者から厳重な警告を受けたこともあった。こうして書かれた「慰霊歌」は全体が4章に分かれ、構成は『草の花』の「第一の手帳」と同様となっているほか、全体が一人称の「僕」の語りにより統一されている。「慰霊歌」を脱稿してのち、病状が悪化したため福永はしばらく執筆を行うことができなかったが、1950年(昭和25年)秋になって健康をやや恢復して『風土』の執筆に着手し、これを完成させてのちに『草の花』の執筆に入った。1953年(昭和28年)3月末、東京療養所を退院。療養者仲間であった岩松貞子と再婚した後、堀辰雄全集の編纂委員の一人に命じられたため、この年の夏休みに妻と共に、長野県の追分にある油屋に滞在。ここでは、堀家で中村真一郎、神西清、丸岡明らと会議を行う一方で、夜には机に向い、『草の花』の執筆を行っていた。夏の間に序章「冬」を書き上げ、東京へ戻ってのちに執筆に入った「第一の手帳」も草稿となる「慰霊歌」があったため比較的楽に書き進められたが、「第二の手帳」の執筆には大いに難航した。12月の末にようやく400枚で脱稿し、翌1954年(昭和29年)4月15日、新潮社書き下ろし叢書の一冊として『草の花』を刊行した。同作で作家としての地位を確立し、以降も『冥府』『忘却の河』『海市』など、人間心理の深奥を探る多くの長編小説を発表した。1961年(昭和36年)、『ゴーギャンの世界』で毎日出版文化賞を受賞。同年、学習院大学文学部の教授に就任。フランス文学を中心にヨーロッパの文学動向を論じた。このほか、ボードレールなどの翻訳や芸術家を主題にしたエッセイや、古典の現代語訳(『日本書紀』、『古事記』、『今昔物語集』)も執筆。また、中村真一郎・堀田善衛と共に、SF映画『モスラ』のシナリオ『発光妖精とモスラ』を執筆したり、中村真一郎・丸谷才一と組んで、西洋推理小説を巡るエッセイ『深夜の散歩』を刊行したりした。さらに加田伶太郎の名前で推理小説、船田学の筆名でSFなどを執筆した。1972年(昭和47年)、『死の島』で日本文学大賞を受賞。1979年(昭和54年)4月20日から5月12日まで北里病院東洋医学科に入院。8月6日に胃潰瘍が悪化し吐血。長野県南佐久郡臼田町(現在の佐久市)の佐久総合病院に入院し、8日に手術を受けるが、12日に容態が急変。同月13日午前5時22分に脳出血のため死去。享年61。


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愛と孤独を主題にした作品を描き続けた福永武彦。その生涯は、病に病の連続で、日々の暮らしも病院が主であったといっても過言ではなかった。作家としては、学生時代に出会った一人の青年への愛を追い求め、それを結実させた『草の花』で、文壇における地位を得た。以降、翻訳、エッセイ、古典の現代語訳、推理小説、S F小説と、病から解き放たれたかのように旺盛な活躍を見せたが、胃潰瘍を機にその人生は急転直下し、61歳の早すぎる生涯を閉じた。福永武彦の墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。没後20年を経て納骨された墓には「福永家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。また、左側には「跡もなき 波ゆく舟に あらねども 風ぞ むかしの かたみなりける」の碑が建つ。

by oku-taka | 2022-12-29 17:33 | 文学者 | Comments(0)