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古川ロッパ(1903~1961)

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古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ)

喜劇俳優
1903年(明治36年)〜1961年(昭和36年)

1903年(明治36年)、東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である加藤照麿男爵の六男として東京府東京市麹町区に生まれる。本名は、古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名である。始めは読み方を「リョクハ」としたが、芸能界入り後は舞台活動では「ロッパ」、文筆活動では「緑波」と使い分けた。1911年(明治44年)、福岡県門司に転居し、1916年(大正5年)に旧制小倉中学校に入学。1917年(大正6年)、東京に戻り、旧制早稲田中学校に転校。在学中の1918年(大正7年)には映画雑誌『映画世界』を発行し、映画評論を執筆して早熟ぶりを発揮する。同時に『キネマ旬報』などの映画雑誌に緑波の名で投稿を始めた。1921年(大正10年)、早稲田第一高等学院に進学。在学中にキネマ旬報の編集同人となる。1922年(大正11年)、小笠原明峰監督の『愛の導き』で映画初出演。その実績を買われ、旧制早稲田大学文学部英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社した。1925年(大正14年)、早稲田大学を中退し文筆活動に専念する。翌年には雑誌編集の傍ら、宴会での余興芸の延長線上として、当時親交のあった徳川夢声らとナヤマシ会を結成し、演芸活動を開始。それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けるなど、モダンな芸風も仲間内の受けが良かった。1930年(昭和5年)、菊池の後援で雑誌『映画時代』の独自経営に乗り出すが失敗し、多額の負債を抱える。雑誌休刊後は東京日日新聞の嘱託として映画のレビューや映画関係の書物の執筆、雑誌『漫談』の編集などを行う。1931年(昭和6年)には俳優として五所平之助監督の『若き日の感激』や田中栄三監督の『浪子』などの映画に出演した。その後、素人芸ながら達者なところを買われ、菊池寛や小林一三の勧めで喜劇役者に転向。1932年(昭和7年)1月、兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』でデビューを果たす。1933年(昭和8年)、浅草で徳川夢声・大辻司郎・三益愛子・山野一郎らと劇団「笑の王国」を旗揚げ。ロッパの人脈を活かしたナヤマシ会関係者や他劇団、映画関係者などの寄せ集めによるアチャラカと呼ばれる軽いナンセンス喜劇が中心で、一日2回から多い時は3回半の公演、約2週間ごとに出し物が変わるというハードなものだった。このとき、後にコンビを組む菊田一夫と出会い、また自作の『凸凹放送局』、『われらが忠臣蔵』などがヒットする。その一方、「エノケン」のニックネームで同時期に活躍した喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った。丸顔にロイド眼鏡、肥った体型がトレードマークのロッパは、華族出身のインテリらしく、品のある知的な芸を持ち味とした。小柄で庶民的、軽業芸も得意なエノケンとは異なり、身体の動きは鈍かったが、軽妙洒脱な語り口と朗々たる美声に加えて、生来の鷹揚さから来る、いかにもお殿様らしい貫禄が大衆に好まれた。1931年(昭和6年)頃からは歌手として数多くのレコードを吹き込み、代表作の『ネクタイ屋の娘』、ナンセンスな『嘘クラブ』、小唄勝太郎と共演した『東京ちょんきな』などの民謡風、『明るい日曜日』などのパロディ物、シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、アニメ映画の挿入歌『潜水艦の台所』、明治製菓のコマーシャルソング『僕は天下の人気者』など、軽妙なコミックソングを得意とした。舞台では、得意としたティペラリーや尻取り歌などのほか、わざと音程を外して歌う芸も披露した。また、歌や漫談、声帯模写と幅広い芸を披露した。1932年(昭和7年)、小林一三が東京宝塚劇場(東宝)を設立し、当時松竹が権勢を誇っていた東京の劇界に進出。旧知のロッパは早速スカウトされ、1934年(昭和9年)3月に開場間もない東京宝塚劇場公演『さくら音頭』への出演を持ちかけられる。これは仲介に立った東宝側の秦豊吉の不手際から頓挫するが、1935年(昭和10年)5月に東宝の前身PCLに引き抜かれる。7月、横浜宝塚劇場で一座の公演が始まり、8月には劇団名も「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め、有楽座で『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、当たり狂言の『ガラマサどん』が大評判となり、丸の内へも進出した。ロッパ一座の特色は、歌舞伎・新派を基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、欧米のモダンさを加え、特にミュージカルを意識して音楽をふんだんに用いた斬新なもので、狂言の中にも『春のカーニバル』『歌えば天国」など、必ず音楽主体の演目を加えた。一座の洗練された舞台は、丸の内の大手企業や外資系企業のサラリーマンを中心とするホワイトカラー層の支持を集め、『ガラマサどん』、『歌ふ弥次喜多』、『ロッパ若し戦はば』、『ロッパと兵隊』、『ハリキリボーイ』などの演目は大ヒット。1936年(昭和11年)には浅草時代の盟友である菊田一夫を招き入れ、菊田作の『道修町』は大阪の観客の幅広い支持を集めた。若手の育成にも力を入れ、その中には後に名をなす森繁久彌や山茶花究もいた。スタッフは座付作者としてロッパ自身と菊田一夫、俳優には渡辺篤、三益愛子などの実力派を揃えた。また、時には徳山璉、藤山一郎、渡辺はま子、中村メイ子、轟夕起子などを起用したり、台本作家として火野葦平や内田百閒の協力を得たりと、プロデューサーとしての才能を発揮して話題を集めた。さらに、レコード吹き込みやラジオ出演、ロッパ個人のステージ活動、雑誌への執筆活動と大活躍。その傍ら、映画へも盛んに出演し、一座をひきいて出演した『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの大久保彦左衛門』『ガラマサどん』『ハリキリ・ボーイ』などで人気を集めた。演技にも定評があり『頬白先生』『婦系図』などの映画作品ではシリアスな役もこなした。しかし、1940年(昭和15年)10月の大阪北野劇場出演中に病気で倒れる。10月1日、東宝は傘下の全演劇団を東宝国民園劇団移動隊に統合し、ロッパも移動演劇班を率いて地方巡業を行う役割を担うこととなった。 1941年(昭和16年)1月、東京有楽座『ロッパと開拓者』『日本の姿』で再び舞台にカムバックすると、『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤの太鼓』『レイテ湾』『歌と宝船』などの舞台や、『突貫駅長』『勝利の日まで』などへの映画出演、地方への慰問巡業など精力的に活動。中でも長谷川一夫と共演した『男の花道』(1941年東宝作品、マキノ正博監督)での芸州浅野家藩医・土生玄磧役は評判となった。1940年(昭和15年)、この頃から方針の違いにより菊田と対立し、菊田に同調する団員との軋轢や、当局による度重なる検閲や統制に悩まされる。1943年(昭和18年)7月には、当局から芸名を「ロッパ」のカナ文字使用から「緑波」に変えるように要請され、憤慨の余り「腹立つ。アダ名なら兎に角、ロッパというのは俺の名だ。それを片仮名で書いちゃあ何故悪い?もう少しで警視庁へのり込んであばれてやらうかと思った」とその想いを日記に書きつけている。1944年(昭和19年)2月、戦局悪化のため閣議決定された決戦非常措置要綱によって、有楽座帝劇が閉鎖。戦争末期の1945年(昭和20年)には、当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め、喜劇への検閲を廃止した。ロッパは渋谷の東横映画劇場を本拠地とする公演に加え、空襲下の京浜地区で工場への慰問活動を行い、また東宝に月給をギャラとするラジオ出演をもちかけるなど、困難な状況にもひるむことなく積極的な活動を続けていた。終戦後は、映画『東京五人男』で活動を再開。大晦日にはNHK『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)の白組司会を務めた。また、戦前からロッパの私的トラブルの相談相手だった上森子鉄(後に総会屋・キネマ旬報のオーナーとして知られることになる)を経営者として、一座は東宝から独立。積極的に舞台活動をするが、ホームグラウンドの東京宝塚劇場が占領軍に接収され、活動範囲が狭められた上にインフレによる諸経費の高騰も重なり、戦前ほどの収益を上げられずに一座の経営は苦境に立たされる。そのような状況下、東京の有楽座で、榎本健一一座と合同公演を行う。出し物の『弥次喜多道中膝栗毛』はロッパ一座の戦前の当たり狂言を元にしたものだが、今回はロッパ・エノケンという喜劇の両雄の初めての共演ということで、笑いに飢えていたファンの支持を受けて大入りとなり、2か月のロングランを記録する。以後、2人の共演の機会が増えるが、裏を返せば、榎本の力を借りなければならないほどに人気が衰えたことを示していた。しかしながら、プライドの高いロッパは、川口松太郎ら友人たちや関係者の忠告にも耳を貸さず、それまでの旧態依然とした芸風と尊大な態度を頑なに守り続けた。1948年(昭和23年)には上森の多額の横領が発覚して、一座から上森を追放するが、すでにラジオなどに人気を奪われていた劇団の存続は困難となり、ロッパは引きたててくれた小林一三のもとを訪れ、有楽座出演の希望を訴えるが「ロッパの人気は肥った円い顔にロイド眼鏡だが、今じゃそのロイド眼鏡が珍しくなくなった。実力でいけ。お情けにすがるな」と説教されてしまう。 1949年(昭和24年)、一座は解散。また、戦時中から台頭してきた清水金一や、元座員の森繁久彌、後輩の伴淳三郎、トニー谷などの新たなスターたちに人気を奪われ、戦前の横暴も祟って周囲の人間もロッパから離れていった。後援者にも見放されたロッパは何とか新境地を開こうとするが、努力も空しく、映画は三流作品の脇役が多くなり、舞台も地方巡業が増えていった。それでも、1953年(昭和28年)3月の東京有楽座の第1回東京喜劇祭りで柳家金語楼、榎本らと共演した『銀座三代』、1958年(昭和33年)7月の芸術座公演で菊田作の『蟻の街のマリア』、翌8月の宇野信夫作『月高く人が死ぬ』などの演技は高く評価された。1954年(昭和29年)、社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任。以後も脇役中心ながらラジオや映画出演は依然多く、日本テレビ開局時より放映開始された連続テレビドラマ『轟先生』の主人公を演じて茶の間の人気を博してた。しかし、すでにロッパの身体は長年の美食と鯨飲馬食による持病の糖尿病のほか、再発した結核にも蝕まれていた。また、銀行を信用せずに常時持ち歩いていた金銭も盗まれ、多額の借金を抱えていた。病魔と闘いながら、生活のために芸能活動を続けなければならず、映画監督や小説家になる野心も失われていった。1960年代になると舞台や映画も端役が多くなり、50代後半ながら体力が落ち、覇気のない演技を批判されたり、弟子筋の森繁久彌から引退勧告を迫られるなど、すっかり過去の人間と成り果ててしまった。病状も悪化する一方で、1960年(昭和35年)11月の大阪・梅田コマ劇場公演『お笑い忠臣蔵』の出演中に倒れるが、辛うじて千秋楽を迎えて帰京する。1961年(昭和36年)1月3日には順天堂病院に入院。同月16日午前11時55分、肺炎と全身衰弱のため死去。享年57。


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榎本健一、柳家金語楼とともに日本の喜劇王と評された古川ロッパ。丸顔にロイド眼鏡、肥えた体型をトレードマークとし、華族出身らしくインテリな品性高い知的な笑いを売りとした。だがその陰には、忙しい合間を縫って榎本健一らライバルの舞台やレビュー・歌舞伎・新派・小芝居・映画を観たり、夏目漱石・永井荷風・チェーホフなどの文学書や鶴屋南北・河竹黙阿弥などの脚本、歌舞伎俳優の芸談、ストリンドベリなどの演劇関係の専門書を読み耽り、自身の芸へと昇華させていた。演技においても工夫を凝らすことを忘れず、方言を本格的に学んだり、戦後は英会話を身につけようと英和辞典をまるごと暗記し、覚えたページは、丸めて食べていったとの逸話があるほどの努力家であった。一方、美食家・日記魔の一面も併せ持ち、特に日記については『古川ロッパ昭和日記』として出版され、日本の喜劇史・昭和風俗史において貴重な資料となっている。こうした功績がありながら、華族出身なことと下積みを経験せずにスターとなったこともあって傲慢で我儘な性格となり、そのために人気が落ちると多くの仲間たちから見放され、往年の人気を知る者には寂しく哀れな最期になってしまった。古川ロッパの墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。墓には「古川家代々之墓」とあり、側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2022-12-29 17:15 | 俳優・女優 | Comments(0)