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林家彦六(1895~1982)

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林家 彦六(はやしや ひころく)

落語家
1895年(明治28年)〜1982年(昭和57年)

1895年(明治28年)、東京府下荏原郡品川町(現在の品川区)に生まれる。本名は、岡本 義(おかもと よし)。その後、浅草に移り住み、1907年(明治40年)に尋常小学校を卒業。1908年(明治41年)より質屋、ホーロー工場、木地屋などを丁稚奉公で転々とする。1912年(明治45年)、二代目三遊亭三福に入門。「福よし」を名乗る。1914年(大正3年)5月、師匠三福が「扇遊亭金三」に改名し、自身も「扇遊亭金八」に改名。1915年(大正4年)頃から大師匠の四代目三遊亭圓生の弟弟子である二代目三遊亭圓楽に稽古を付けて貰うようになる。1917年(大正6年)1月、師匠金三と共に四代目橘家圓蔵の内輪弟子となる。1918年(大正7年)2月、二ツ目に昇進し、「橘家二三蔵」に改名。1919年(大正8年)4月、圓楽が「三遊一朝」に改名したことから圓楽の名を譲られ、二ツ目のまま「三代目三遊亭圓楽」を襲名。この頃は初代桂小南らの三遊分派に所属した。1920年(大正9年)6月、真打に昇進。1922年(大正11年)2月、師匠圓蔵の死去に伴い、三代目柳家小さんの預かり弟子となる。その後3か月ほど二代目桂三木助の元で修行し、『啞の釣』『莨の火』などの上方噺を教わり、江戸の噺に作り直した。1925年(大正14年)9月、兄弟子である初代柳家小はん、柳家小山三らと共に「落語革新派」を旗揚げするが、翌年1月に解散。1927年(昭和2年)に東京落語協会(現在の落語協会)に復帰。兄弟子四代目蝶花楼馬楽の内輪弟子となる。1928年(昭和3年)4月、前師匠の三代目柳家小さん引退に伴い、師匠馬楽が四代目柳家小さんを襲名。馬楽の名を譲られ、「五代目蝶花楼馬楽」を襲名する。この頃、東宝名人会などで活躍する一方、芝居の脚本の朗読会「とんがり会」を開き、また、徳川夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、木下華声らと漫談の修行をしていたこともあった。1950年(昭和25年)、父正蔵没後6か月後の1950年4月22日、五代目柳家小さんの名跡をめぐり、弟弟子の九代目柳家小三治と争う。かつて四代目柳家小さんが、四代目馬楽襲名後に四代目小さんを襲名した経緯から、馬楽を名乗った後は小さんになるのが通例であったが、小三治が当時実力者であった八代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていたこと、元々馬楽が三遊派から柳派に移籍した「外様」であったことが影響し、この争いに負けてしまう。しかし、襲名があっても香盤は変わらないので、“小さん”の名前が馬楽より格下となる「ねじれ現象」が生じてしまい、差し障りが出てしまう。そこで、馬楽に小さんより格上(又は同等)の名跡を襲名するように促し、馬楽も空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で、父同様に五代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、八代目林家正蔵を襲名した。一方、自らの弟子の真打昇進時には、亭号を「林家」から他のものに変更させ、七代目正蔵の息子である林家三平への配慮を見せていた。三平生存中に亭号を変更しなかった弟子に3番弟子の林家枝二がいるが、その後に七代目春風亭栄枝を襲名して他の亭号に変更している。なお、4番弟子の初代林家木久蔵(現在の林家木久扇)は、三平に気に入られていたことからその肝煎りもあって亭号を変えることはなかった。このため、現在林家は二系統あるものの、木久扇は病に倒れた三平の惣領弟子であるこん平の代理として、九代目正蔵・ニ代目三平の後見になっている。八代目となった正蔵は、滋味あふれる語り口で、駆け出しの頃に初代三遊亭円朝の直弟子・三遊亭一朝に稽古をつけてもらったことから、円朝の衣鉢を継ぐ三遊派の人情噺や道具を使った怪談噺・芝居噺を得意とし、『二つ面』『笠と赤い風車』『ステテコ誕生』などの新作落語も手がけた。1963年(昭和38年)12月、第18回文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞を受賞。1965年(昭和40年)、落語協会副会長に就任。12月に第20回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞を受賞。1968年(昭和43年)11月3日、紫綬褒章を受章。12月、人情噺『淀五郎』で第23回文化庁芸術祭(1部・大衆芸能部門)芸術祭賞を受賞。また、同年12月から1970年(昭和45年)2月からの隔月(偶数月)に 「芝居噺 林家正蔵の会」を東京・岩波ホールにて開催。当時、この口演の模様は、今後の資料として残すために、日本大学芸術学部映画学科の協力を得て16mmフィルムで撮影されており、予算の関係で基本的にはモノクロで撮影されたが、特に舞台装置等で「色彩に凝ったもの」に関しては、カラーで撮影をした。この記録映画は後に貸し出されてもおり、後にビデオ化されて、三一書房で販売もされた。1972年(昭和47年)4月、九代目桂文治、六代目三遊亭圓生と共に落語協会顧問就任。1974年(昭和49年)、勲四等瑞宝章を受章。1976年(昭和51年)、怪談『牡丹灯籠』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1980年(昭和55年)9月20日、林家三平が死去。このため、9月28日に「正蔵」の名跡を海老名家に返上。1981年(昭和56年)1月下席より「林家彦六」に改名。「彦六」の由来は、木村荘十二の監督した映画『彦六大いに笑ふ』(1936年)で徳川夢声が演じた役名「彦六」から。4月、昭和55年度第1回花王名人大賞功労賞を受賞。11月7日、日本橋たいめい軒で行われた一門会の『一眼国』が最後の高座となる。1982年(昭和57年)1月29日、 肺炎のため東京都渋谷区の代々木病院で死去。享年86。没後、従五位を追贈された。


林家彦六(1895~1982)_f0368298_17061798.jpg

林家木久扇の十八番ネタとして、今もその名が知られている林家彦六。長らく「八代目林家正蔵」の名で活躍していたことから、正蔵といえばこの人を思い浮かべる人も多い。最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声と小刻みに震える体がクローズアップされがちだが、若かりし頃は立て板に水の正統派江戸落語を披露し、六代目圓生や八代目文楽らと人気を分けた名人であった。現に、晩年の高座はヘナヘナ声であっても、問題なく聞き取れるレベルを維持していたのだから驚きである。反骨心があり、曲がったことが大嫌いな性格から“トンガリ”とあだ名され、逸話に事欠かなかった彦六師匠の墓は、東京都豊島区の盛泰寺にある。五輪塔の墓には「岡本家先祖代々菩提供養塔」とあり、右側面に墓誌が刻む。しかし、彦六の戒名は不明。

Commented by Tkat at 2023-05-12 17:12 x
彦六師匠の戒名は、おそらく右から四番目の塔婆にかいてある「楽説院正観日義居士」だとおもわれます。
by oku-taka | 2022-12-29 17:08 | 演芸人 | Comments(1)