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五代目・春風亭柳朝(1929~1991)

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五代目・春風亭 柳朝(しゅんぷうてい りゅうちょう)

落語家
1929年(昭和4年)〜1991年(平成3年)

1929年(昭和4年)、東京市芝区(現在の東京都港区)新橋に生まれる。本名は、大野 和照(おおほの かずてる)。旧制正則中学在学中に、志願して海軍に衛生兵として入隊。終戦後は職を転々とし、1950年(昭和25年)3月に五代目蝶花楼馬楽(後の八代目林家正蔵、林家彦六)に入門。小照を名乗る。しかし、1951年(昭和26年)に二ツ目の先輩と喧嘩をしたことから破門を言い渡されて廃業。一旦は転職するも、1952年(昭和27年)に再入門。林家正太を名乗る。1953年(昭和28年)5月、二ツ目に昇進し、照蔵に改名。1962年(昭和37年)5月、真打に昇進し、五代目春風亭柳朝を襲名する。亭号が「春風亭」になったのは、師匠が「林家正蔵」の名跡を七代目林家正蔵の遺族である初代林家三平より一代限りの条件で借り受けていたことから、三平に配慮して自分の弟子が真打に昇進した時は他の亭号に変えさせていたためである。「春風亭」の名跡は落語協会にもあったが、八代目春風亭柳枝没後封印されていた。そのため日本芸術協会(現在の落語芸術協会)会長の六代目春風亭柳橋に面会し、柳朝を名乗ることの了承を得た。1960年代はテレビ、ラジオでも顔を売り、特にテレビ朝日系『日曜演芸会』(後の末広演芸会)の大喜利(末広珍芸シリーズ)にレギュラーとして出演し、しばしば柳家小せんのいじめ役を演じた。こうした活躍から、七代目立川談志、三代目古今亭志ん朝、五代目三遊亭圓楽と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。1972年(昭和47年)、五代目柳家小さんが落語協会会長に就任すると同時に、同協会専務理事に就任。後に常任理事に就任した。1980年(昭和55年)、2番弟子の春風亭小朝が36人抜きで真打昇進。このことは当時の大ニュースとなり、柳朝は押しも押されもせぬ大幹部となる。しかし、1982年(昭和57年)12月に脳梗塞に倒れ、日本大学病院に入院。左半身不随となり、重度の言語障害を患った。以後は寝たきりとなり、高座復帰も叶わぬまま、1991年(平成3年)2月7日に死去。享年61。


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小気味の良い江戸弁の啖呵と、熱気溢れるスピーディーな語り口を持ち味とした五代目春風亭柳朝 。晩年は病を患い、第一線から退いてしまった為に忘れ去られた落語家となってしまったが、かつては、七代目立川談志、三代目古今亭志ん朝、五代目三遊亭圓楽と共に「落語四天王」と呼ばれた。その中でも、気っ風の良さを持ち、表は飾らず裏地で派手に見せる粋な着物を身に纏い、得意の江戸弁の芸を披露するという、実に噺家らしい噺家だった。吉川潮によれば、春風亭小朝も柳朝の鯔背な着物姿を見て弟子入りを志願したという。喧嘩っ早く、酒と博奕には目がない。昔気質の落語家人生を貫いた春風亭柳朝の墓は、東京都中野区の福蔵院墓地にある。墓には「大野家之墓」とあるのみで、墓誌はない。なお墓地は、菩提寺と道を挟んだ反対側にあるので、訪問の際はご注意されたし。

by oku-taka | 2022-12-11 13:09 | 演芸人 | Comments(0)