人気ブログランキング | 話題のタグを見る

十代目・桂文治(1924~2004)

十代目・桂文治(1924~2004)_f0368298_17195865.jpg

十代目・桂 文治(かつら ぶんじ)

落語家
1924年(大正13年)〜2004年(平成16年)

1924年(大正13年)、落語家・初代柳家蝠丸の長男として、東京都豊島区雑司ヶ谷に生まれる。本名は、関口 達雄(せきぐち たつお)。早くから噺家志望であったが、軍需工場工員を経て1944年(昭和19年)に召集令状を受ける。航空兵志望だったが、父が初代蝠丸だというのが知られていたのか、「はなし家はオトスから」という理由で断られた。終戦後の1946年(昭和21年)6月、2代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。1948年(昭和23年)10月、2代目桂伸治に改名して二つ目に昇進。1958年(昭和33年)9月には真打に昇進した。1959年(昭和34年)、フジテレビ『お笑いタッグマッチ』に回答者として出演。テレビ演芸の草分け的であった当番組に出演したことで人気を集め、1960年代の演芸ブームでテレビやラジオに多く出演。丸美屋食品工業のふりかけ「のりたま」のテレビCMでも有名となった。1979年(昭和54年)3月、前年に亡くなった九代目桂文治の盟友である八代目林家正蔵(後の林家彦六)の推薦で十代目桂文治を襲名。桂派宗家となる。以降、江戸落語の重鎮として人情噺や怪談噺には目をくれず、落し噺一筋に活躍。とぼけた味の爆笑落語が持ち味で、「源平盛衰記」「お血脈」「やかん」などの地噺は“文治流”とも呼ばれた。その一方、書道、彫刻、盆栽など落語界きっての多芸としても有名で、中でも南画は書壇院展で特選を繰り返し、東京都美術館の審査員も務めた。1981年(昭和56年)、芸術祭優秀賞を受賞。1996年(平成8年)、芸術選奨文部大臣賞を受賞。1999年(平成11年)9月、四代目桂米丸の後任で落語芸術協会の会長に就任。2002年(平成14年)11月、勲四等旭日小綬章を受章。2003年(平成15年)末、高齢を理由に落語芸術協会会長の退任を表明したが、2004年(平成16年)1月18日に急性白血病のため入院。その後、東京都新宿区の東京女子医科大学病院に転院したが、容態が悪化し、芸協会長の任期満了日であった1月31日午後5時17分、急性白血病による腎不全のため死去。享年80。


十代目・桂文治(1924~2004)_f0368298_17195700.jpg

十代目・桂文治(1924~2004)_f0368298_17195872.jpg

歯切れの良い軽妙な語り口で知られた十代目桂文治。江戸の言葉遣いにこだわり、「こたけむかいはら」(小竹向原)というのは間違っている、江戸言葉では「向こう」というのが正しいから、正確には「こたけむこうはら」、「やじうま(野次馬)」ではなく「やじんま」、「何を言やがるんでえ」ではなく「何をいやんでぇ」、また江戸の職人は「やかましいやい」ではなく「うるせいやい」、商人は「ありがとうございました」では縁が切れるから「ありがとうございます」や「ありがとう存じます」というのが正しいんだ、という持論を持っていた。また、普段から落語家らしく色紋付きのない着物姿で過ごし、高座では黒紋付きで通した。古来からの風習にこだわり、芸協会長の任期満了日に旅立っていった先代文治の墓は、東京都港区の玉窓寺墓地にある。二基ある墓のうち、左は「関口家代々之墓」、右は先祖の戒名が刻まれた墓となっており、十一代目桂文治によれば、納骨されたのは右側の墓であるという。戒名は、「文翁院話玄達道居士」。

by oku-taka | 2022-11-26 17:22 | 演芸人 | Comments(0)