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原貢(1936~2014)

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原 貢(はら みつぐ)

野球指導者
1936年(昭和11年)〜2014年(平成26年)

1936年(昭和11年)、佐賀県神埼郡三田川町(現在の吉野ヶ里町)に生まれる。鳥栖工業高等学校を卒業後、立命館大学に進学するも中退。ノンプロの東洋高圧大牟田(現在の三井化学)に入社し、三塁手として活躍。1959年(昭和34年)、東洋高圧大牟田でプレーしながら、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。打撃に力を入れ、速球に負けないスイングスピードを身につけるために素振りを日課とさせ、一人一人に合わせた特注品のバッドを熊本の工場に注文した。これが実を結び、1965年(昭和40年)に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、三池工フィーバーを起こした。その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者・総長松前重義の招きで、1966年(昭和41年)東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。「神奈川の高校野球を変える」と宣言し、それまで、引っ張らずに単打を重ね、犠打で少ない好機を生かすのが主流であったチーム打撃を、三池工の攻撃的野球スタイルそのままに東海大相模を鍛えた。その結果、1970年(昭和45年)夏の甲子園で同校を初の全国優勝に導くなど、9度の甲子園出場を果たし、まだ歴史の浅かった同校を全国屈指の強豪校へと育て上げた。守備に重点を置いた厳しい指導を行う一方、当時は「水を飲むと動きが鈍くなる」「飲むような奴は根性が無い」というのが通説となっていた1970年代の指導者にしては珍しく練習中の水分補給を認めたり、塩を舐めさせたりするなど、進歩的な考えも併せ持っていた。1974年(昭和49年)には長男の辰徳が入学し、親子鷹と注目を集めたが、辰徳には野球部内では親子の関係を一切断ち切るなど厳しい条件を押し付けた。練習では何度も辰徳に対して鉄拳を浴びせ、ほかの選手の襟を正すための手本とさせた。1976年(昭和51年)11月16日、辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任することを発表。首都大学リーグでは22シーズンに渡って指揮を執り、13度のリーグ制覇を果たし、7連覇をも達成した。東海大の名は一気に全国区となったが、辰徳が巨人入りすることが決まった直後の1980年(昭和55年)12月19日に東海大相模監督に復帰。1984年(昭和59年)からは東海大学系列校野球部の総監督となったが、1990年(平成2年)春から東海大監督に復帰。6度のリーグ優勝に導き、1996年(平成8年)10月29日に勇退を表明した。以降は再び東海大学系列校野球部総監督として後進の指導にあたった。2011年(平成23年)、孫の菅野智之がドラフトで巨人の単独指名を受けるとみられていたが、日本ハムが強行指名して交渉権を獲得したことについて、「日本ハムからあいさつが一言もなかった。これは人権蹂躙」「あいさつもなしに指名するなんて“だまし討ち”」と憤った。2014年(平成26年)5月4日、ゴルフを終えて帰宅後に胸の痛みを訴え、神奈川県相模原市内の病院に緊急入院。心筋梗塞と大動脈解離を併発し、集中治療室(ICU)に入った。5月29日午後10時40分、心不全のため死去。享年79。没後、生前の功績を讃えられ、東海大学の松前達郎総長から『東海大学野球部名誉総監督』の称号が追贈された。2015年(平成27年)6月8日には、2015年度の育成功労賞を受賞した。


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強固な意志と常に攻めの姿勢で挑み続けたアマチュア野球界の重鎮・原貢。炭坑の街・大牟田の三池工を率いた夏の甲子園大会で工業高校としては初の全国制覇を果たし、5年後には東海大相模の監督として再び全国制覇を成し遂げた。その後、東海大学野球部監督に就任し、首都大学リーグ通算13度の優勝を達成。また、妥協を許さない熱血指導で、上田卓三や遠藤和彦などのプロ野球選手、岩井美樹や村中秀人などのアマチュア指導者ら多くの人材を育て、日本球界に大きな功績を残した。中でも、巨人軍の4番打者を務め、監督として名将の名を欲しいままとした息子・原辰徳、同じく巨人軍のエースとなった孫・菅野智之を育て上げたことは特筆すべき点であろう。それだけに、日本ハムが強行指名して菅野の交渉権を獲得した際、「日本ハムからあいさつが一言もない。これは人権蹂躙だ!」と憤ったときは、その時代錯誤さに引いてしまった。高校野球の世界において一時代を築いた原貢の墓は、東京都港区の玉窓寺墓地にある。野球ボールをかたどったモニュメントのある墓には「原家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「熱球院釋貢勝」。

by oku-taka | 2022-11-26 17:14 | スポーツ | Comments(0)