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星野淳一郎(1960~2017)

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星野 淳一郎(ほしの じゅんいちろう)

テレビディレクター
1960年(昭和35年)〜2017年(平成29年)

1960年(昭和35年)、生まれる。早稲田実業学校ではブラスバンド部に所属し、高校生の頃からアルバイトとしてフジテレビでADを務めていた。「THE MANZAI」のアルバイトADだった学生時代に、番組のターゲットを学生に当てることを発案し、大学の落語研究会やプロレス研究会に動員をかけて約400人の学生を集め観覧をさせたことで若者の間に漫才ブームを巻き起こした。早稲田大学卒業後の1983年(昭和58年)、バイト先だったフジテレビにフリーディレクターとして契約。編成局第二制作部(現在の編成制作局バラエティー制作センター)で、同期の吉田正樹と共に横澤彪班に所属した。その後、昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』、タモリを司会に抜擢した『笑っていいとも!』を制作。特に後者ではチーフディレクターを務め、ADの人事や、誰をどこにつけるのかまで全部を取り仕切り、出演者側とのギャラ交渉をも担当、放送時はスタジオアルタの下手に立って全体を指揮した。1985年(昭和60年)、は無名の若手お笑い芸人たちやミュージシャンたちを紹介する深夜番組『冗談画報』のディレクターとなり、星野は所ジョージ、ダウンタウン、憂歌団を担当した。1987年(昭和62年)、フジテレビ開局30周年を記念して『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』(後の27時間テレビ)を企画。当番組に星野はチーフディレクターとして参加。全てのコーナー台本を書き上げるだけでなく、総合演出を務めた三宅恵介の後方で全スタッフに指示出しを行い、事実上現場を取り仕切った。1988年(昭和63年)、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子が出演した深夜番組『夢で逢えたら』のディレクターに就任。当初は金曜(木曜深夜)2時過ぎの放送だったためか、初期の視聴率は1%を切ることもあったが、作家の書いたコント台本を星野がリライトし、「ガララニョロロ」「伊集院みどり」「サービス」「タキシーズ」「ポチ&卍丸」など多数の人気キャラクターが生まれたことで徐々に人気が高まり、土曜に移って全国ネット化してからは、深夜番組としては異例の最高平均視聴率20.4%という高視聴率を記録した。以降、『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば』『ダウンタウンのごっつええ感じ』など、主にウッチャンナンチャン、ダウンタウンの番組で演出と監修業務を担当。フジテレビとの契約が切れた後は、日本テレビなどでもディレクター・番組演出家・スーパーバイザーとして、『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』『ウンナンの気分は上々。』など、バラエティ番組を中心に演出や監修を担当する。1998年(平成10年)、フジテレビ『笑う犬』シリーズのチーフプロデューサーを担当することとなった元同僚の吉田に誘われ、同番組のプロデューサーに就任。後進のディレクターの指導育成などを任された。2017年(平成29年)12月、逝去。享年57。


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1981年(昭和56年)、それまでの「母と子のフジテレビ」としていたフジテレビは、「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出した。このキャッチフレーズの下に、プロデューサー・横澤彪の懐刀として人気番組を次々に手がけ、フジテレビを一躍時代の寵児にのし上げたせのが、伝説のテレビマンと呼ばれた星野淳一郎である。タモリ、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンと、今も活躍するタレントたちの代表的番組でディレクターを務め、番組のみならずそのタレントたちの人気に大きく貢献した。特に、若干26歳で27時間テレビを企画し、30年も続くことになる大型番組の基礎を築いたことは特筆すべきことであろう。前に出るタイプではなく、自らをも語ることがなかった為、その素性は謎に満ちていた星野淳一郎の墓は、東京都港区の梅窓院にある。墓には「星野淳一郎」の名とともに、手がけた代表的番組と「多くの人々との思い出と共に眠る」の一文が刻まれている。戒名は「喜道淳祐信士」。

by oku-taka | 2022-11-13 11:29 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)