人気ブログランキング | 話題のタグを見る

すぎやまこういち(1931~2021)

すぎやまこういち(1931~2021)_f0368298_00365845.jpeg


すぎやま こういち

作曲家
1931年(昭和6年)〜2021年(令和3年)

1931年(昭和6年)、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。本名は、椙山 浩一。祖母が子守唄として讃美歌を歌っていたことや、両親が音楽好きだったことから、幼少から音楽に親しむ。また、両親がゲーム好きだったことから、物心がついた頃から自身もゲーム好きだった。小学校時代は父の仕事の影響で引越しが多く、1年(東京市鷹番尋常小学校)、2年〜5年(清水尋常小学校)、5年〜6年(市川真間小学校)と転校を繰り返す。名古屋に住んでいた頃から鼻歌で作曲を始めるようになり、カール・ブッセの「山のあなた」にメロディをつけた。その後、旧制の千葉県立千葉中学校(現在の千葉県立千葉中学校・高等学校)に入学するものの、戦況の悪化に伴い、大分県竹田市・岐阜県坂下町に疎開。戦後、東京に戻るが、食糧不足から壊血病になり死にかける。この時期、父が焼け残った自宅の反物を持って、荻窪の駅前にあったレコード屋に行き、物々交換でベートーヴェンのレコードやオーケストラの楽譜(交響曲第6番と第7番のスコア)を手に入れてきてくれたので、それを元に独学でクラシック音楽の勉強を重ねた。その後、旧制東京都立武蔵中学校(現在の東京都立武蔵丘高等学校)の2年に編入。ここで青島幸男や砂田実と知り合い、青島とは生涯の親友になる。1949年(昭和24年)、新制の成蹊高等学校に第1期生として入学。音楽部を創立し、3年の時には戦時中に活動休止していた学内オーケストラを再組織。指揮と編曲を務めた。卒業が迫った頃には谷桃子バレエ団の依頼でオペラ用に「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を作曲。このオペラは何度も再演された。当初は音楽大学への進学を望んでいたが、ピアノが弾けなかったことから断念し、東京大学理科II類に進学。しかし、学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。3年次、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ傍系進学。しかし、教官が授業にあまり出ないすぎやまの顔を覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため、1年留年した後に卒業した。卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイトをしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後に芸能部に移り、「日立コンサート」を担当した。1958年(昭和33年)、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組はラジオだからこそ出来るものだ」「実際に現場に歌手を大量に集めるのは困難だ」と局内、広告代理店、スポンサー全てが難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集にナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て放送にこぎつけた。当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。1964年(昭和39年)、大型バラエティ番組『新春かくし芸大会』をすぎやまと渡辺の2人が主導する形で制作・放送。当番組は、長年に渡って正月・元日の看板番組となった。ディレクター業と並行してCMの作曲家としても精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないよう苦慮するようになり、またJASRACとフジテレビが著作権料の支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家としてのギャラの方が多かったこともあって、1965年(昭和40年)4月にフジテレビを退社した。退職後、フリーのディレクターとしてフジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、作曲家としてザ・ピーナッツの黄金時代を支え、『ローマの雨』『恋のフーガ』といったヒット曲を提供。また、ザ・タイガースのデビュー前から関わり、ザ・タイガースというバンド名を与えた。沢田は「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べているが、すぎやま自身は「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している。以降、デビュー曲『僕のマリー』を皮切りに、『シーサイド・バウンド』『モナリザの微笑』『君だけに愛を』『花の首飾り』とヒットを重ね、ザ・タイガースを人気バンドに押し上げた。1968年(昭和43年)からは作曲活動に専念。ヴィレッジ・シンガーズ『亜麻色の髪の乙女』、ガロ『学生街の喫茶店』をヒットさせたが、1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く手がけるようになり、中でも1971年(昭和46年)の『帰ってきたウルトラマン』の主題歌は代表作の一つとなった。1978年(昭和53年)には、劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し、『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表した。1980年代半ばになると、ゲーム音楽を手がけるようになる。きっかけは、1985年(昭和60年)8月にエニックス(現在のスクウェア・エニックス)から発売されたパソコン版ソフト『森田和郎の将棋』の序盤の駒の組み方に疑問を持ち、同ソフトに添えられていたアンケートハガキを熱心に書いたが、投函するのが面倒になりほったらかしにしていたところ、妻がそれを見つけて投函し、エニックスの担当者からゲーム音楽の依頼が入り、『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』の作曲を担当することとなった。これにより、エニックスとつながりができた。その直後、同じくエニックスがプロデュースしていた『ドラゴンクエスト』に、内部スタッフが作った音楽の出来が良くないという事態を受けて、エニックスから依頼を受けて制作に参加。しかし、当時の開発陣であるチュンソフトは学生のサークル活動の延長上にあり、さらにはチュンソフトによる「ドラゴンクエスト」のゲームサウンドがある程度出来上がった時期でのすぎやまの参加が伝えられたため、特に中村光一は強く反対をした。初対面時は「異分子が入ってきたぞ」「よそ者だ」と警戒され、「ゲーム好き」というのも信じてもらえずに色眼鏡で見られていたという。堀井雄二や千田幸信が間を取り持ちつつ、すぎやまは場の雰囲気を和らげるため、バックギャモンの話に始まってゲームにまつわる話題で会話をするうちに無類のゲーム好きであることが伝わり、当時日本に二台しかなかったビンゴ・ピンボールにハマり、仕事後数時間かけて横浜に行って遊んでいたことなどを話す内に尊敬のまなざしを受けるようになったという。こうして一ゲームファンとして受け入れられ、正式に作曲を依頼されてこれを受託し、作曲に携わることになる。当初はロック調でと注文されたが、すぎやまが中村に「ドラゴンクエストとはどういう世界のゲームか?」と尋ねたところ「中世の騎士物語」と言われ、ゲームの世界観が「中世の騎士物語」ならばクラシック調がふさわしいとすぎやまは主張し、クラシックをベースにした基本コンセプトが固まった。マスターアップ直前のことであり、1週間で全ての楽曲を製作。以降、全シリーズの作曲のみならず開発の初期段階(企画立案の段階)からプロジェクトチームの一員として参加。「ドラゴンクエストの作曲家」として有名になり、これを機にゲーム以外の仕事を自ら減らし、専らゲーム作曲家として活動。この時期にオーケストラへの興味が増し、1987年(昭和62年)から毎年オーケストラなどを率いて『ファミリークラシックコンサート』『「ドラゴンクエスト」コンサート』などのコンサートを行った。平成に入ると、保守系文化人としても活動し、国家基本問題研究所評議員、教科書改善の会賛同者、「国籍法の是正を求める国民ネット」代表委員、歴史事実委員会委員、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人、朝日新聞を糺す国民会議代表呼びかけ人、放送法遵守を求める視聴者の会呼びかけ人などを務めた。また、政治家に対する直接的な支援としては、松原仁・稲田朋美・城内実などの応援曲の作曲を手掛けたほか、稲田に計250万円(夫人・之子名義のものを含めると計450万円)、安倍晋三に計160万円、中山成彬に130万円、中山恭子に80万円、赤池誠章に50万円を献金するなど、金銭面での支援も行っている。2000年(平成13年)、いわゆる一票の格差是正に向けた「一票の格差を考える会」の発起人となり、2月より意見広告、情報収集、ラッピングバスキャンペーンなどを展開した。また、ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙に「南京事件の被害者が30万人という説、およびそれに基づく日本軍の虐殺行為は事実として認められない」という趣旨の意見広告を載せようとし、一度は断られたが、2007年(平成19年)6月14日付ワシントン・ポスト紙に歴史事実委員会名義で「THE FACTS」(慰安婦問題について強制性はなかったとし、アメリカ合衆国下院121号決議案採択阻止を目指す目的の意見広告)が掲載された。これを主導し、広告費全額を負担したのはすぎやまであり、決議案は採択された。2010年(平成22年)2月、三橋貴明、西村幸祐らと共に、「日本人による日本人のためのメディア」という趣旨の下、“メディアを監視する”ウェブサイト「メディア・パトロール・ジャパン」を立ち上げ、コラムを執筆。5月、藤井厳喜と西村幸祐が鳩山由紀夫を「公職選挙法違反」の容疑で告発した際、署名の中にすぎやまも名を連ねた。2015年(平成27年)11月には放送局に放送法遵守を求める「放送法遵守を求める視聴者の会」を興した。作曲家としては、2004年(平成16年)、SUGIレーベルを設立。かつて様々なレコード会社から販売されていた『ドラゴンクエスト』関連のアルバムの販売を一元化するとともに、旧作の再発売や再演奏・再録音などを行った。2016年(平成28年)9月3日、東京芸術劇場コンサートホールで行われた『第30回ファミリークラシックコンサート-ドラゴンクエストの世界-』中に、『世界最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家』としてギネス世界記録をサプライズ受賞した。その後もドラゴンクエストシリーズの新作が発売されるごとに自らギネス記録を更新している。2018年(平成30年)、旭日小綬章を受章。2020年(令和2年)、文化功労者に選出された。2021年(令和3年)7月23日、東京オリンピック開会式の各国入場行進曲として『ドラゴンクエスト』「序曲:ロトのテーマ」が使用される。9月30日、敗血症性ショックのため死去。享年90。没後、従四位と旭日中綬章を追贈された。


すぎやまこういち(1931~2021)_f0368298_00365857.jpg

すぎやまこういち(1931~2021)_f0368298_00365706.jpg

すぎやまこういち(1931~2021)_f0368298_00365971.jpg

すぎやまこういち(1931~2021)_f0368298_00365772.jpg

ジャンルにとらわれず、作曲家として多方面で活躍したすぎやまこういち。ザ・タイガースを世に送り出し、GSブームの火付け役となったのを皮切りに、歌謡曲『恋のフーガ』、フォークソング『学生街の喫茶店』、特撮の主題歌『帰ってきたウルトラマン』、東京競馬場・中山競馬場で使用されるファンファーレなど、幅広いジャンルの音楽を多数生み出した。特に、「ドラゴンクエスト」シリーズは30年以上にわたって11作品すべての音楽を担当し、その数は500曲を超える。序曲に至っては、先の東京五輪の開会式で使用され、こちらもまた大きな話題となった。それだけに、そのわずか2ヵ月後の訃報には驚きを隠せなかった。「ドラゴンクエスト」35周年記念の際、卒寿を迎えたことと併せて「僕の音楽に心を動かされた聴き手がいらっしゃる限りはがんばりたいと思っています」とコメントを寄せていたすぎやまこういち。音楽を通してゲームの地位向上に貢献した作曲家の墓は、東京都港区の善福寺にある。墓には「椙山家之墓」とあり、右側に墓誌、入口に直筆のサイン・「ドラゴンクエスト」のキャラクター・ドラキーと序曲の譜面、「音楽は心の貯金です 音楽は心のタイムマシーンです 音楽は心の応援団です」 の言葉が刻まれている。戒名は「浄楽院釋浩優」。

by oku-taka | 2022-11-06 00:43 | 音楽家 | Comments(0)