人気ブログランキング | 話題のタグを見る

大野伴睦(1890~1964)

大野伴睦(1890~1964)_f0368298_00130682.jpg


大野 伴睦(おおの ばんぼく)

政治家
1890年(明治23年)〜1964年(昭和39年)

1890年(明治23年)、岐阜県山県郡谷合村(現在の山県市)に生まれる。本名は、大野 伴睦(おおの ともちか)。弁護士を目指し、岐阜県から上京して明治大学政治経済学部に入学。しかし、憲政擁護運動に関心を持ち、1913年(大正2年)に大正政変の暴動に参加。日比谷焼打事件で投獄された後、三多摩壮士の総帥で党の幹部だった村野常右衛門に薦められて立憲政友会の院外団に入るようになった。その後、明治大学政治経済学部を修了。1923年(大正12年)、東京市会議員に当選。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に岐阜1区から出馬して初当選。政友会鳩山派に属す。1933年(昭和8年)、キリスト教団体美濃ミッションに対して「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と主張して排撃運動を推進した。新体制運動のスローガンが叫ばれていた1939年(昭和14年)、政友会の分裂に際し、鳩山一郎とともに正統派(久原房之助派)へと所属。1941年(昭和16年)、翼賛議員同盟に反発して鳩山らとともに同交会の結成に参加。1942年(昭和17年)、非推薦で翼賛選挙に立候補するも落選した。戦後となった1945年(昭和20年)、日本自由党の結成に参加。1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補。当選となって国政復帰を果たした。その後、総裁の鳩山、幹事長の河野一郎が公職追放されたのを受け、党人側から政治経験の浅い吉田茂のお目付け役として後任の幹事長に就任する。吉田内閣では官僚出身の吉田を党側の人間として補佐し、林譲治や益谷秀次とともに「党人御三家」と呼ばれた。第1次吉田内閣の総辞職後に政権を獲得した日本社会党の右派西尾末広から連立内閣での内務大臣就任を要請されるが、「社会党の左派を切らない限り政権には参加しない」として固辞した。野党時代で民主自由党顧問だった1948年(昭和23年)6月、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問される。同年、昭電事件に連座して起訴。しかし、1951年(昭和26年)には無罪判決を勝ち取った。1952年(昭和27年)8月26日には衆議院議長に就任したが、その2日後に抜き打ち解散が行われ、わずか3日で議長職を失う。10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後にバカヤロー解散が行われて議長を長く務めることはなかった。鳩山の追放解除後は、三木武吉、河野一郎ら鳩山側近と対立して吉田派に転じた。特に、戦前は政友会と対立関係であった立憲民政党出身でありながら、戦時中の翼賛議会以後に急速に鳩山と接近してその無二の腹心となった三木に対しては激しい反発を持っていた。1953年(昭和28年)、第5次吉田内閣に国務大臣・北海道開発庁長官として入閣。1954年(昭和29年)、自由党総務会長に就任。反目しあっていた日本民主党総務会長の三木武吉と和解し、保守合同を進めた。しかし、誰を総裁とするかで合意がまとまらなかったが、結党後に公選によって総裁を選出することとし、二党の総裁と総務会長であった鳩山、緒方竹虎、三木、大野の4人による総裁代行委員が設置されることとなった。1955年(昭和30年)12月、自由民主党を結成。翌年の4月には緒方が死去し、鳩山が自由民主党総裁選挙により総裁に就任した。自民党内では自身の派閥となる白政会(後の睦政会)を旗揚げし、大野派として約40名を擁する派閥の領袖となった。1957年(昭和32年)、初代自民党副総裁に就任。また、日本遺族会の顧問を務め、1958年(昭和33年)1月には遺族からなる陳情団を組織し、政府および自民党に対して靖国神社への公式参拝を要求した。1959年(昭和34年)、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れる。しかし、翌年に岸はこれを反古にする。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。大野は首相就任に強い意欲を燃やしており、1960年(昭和35年)7月に行なわれた岸辞任後の自民党総裁選では、池田勇人に対抗し、石井光次郎とともに党人派から出馬に名乗りを上げた。しかし、大野支持で岸派の一部・十数名を束ねていた川島正次郎から「党人派が分裂すると池田に勝てないので、石井一本にまとめたほうがいい」との進言を受け、大野は泣く泣く出馬を辞退する。ところが川島は「大野を支援しようと思ったが、辞退したのでわが派は池田を支持する」と表明し、池田当選に一役買うこととなる。このとき大野は「川島にだまされたんだ」と再度号泣したといわれる。1961年(昭和36年)、池田に接近して再び自民党副総裁に就任。しかし、1964年(昭和39年)の自由民主党総裁選挙の目前で脳血栓となり、慶應義塾大学病院に入院。5月29日、心筋梗塞を併発して死去。享年73。没後、従二位と勲一等旭日桐花大綬章が贈られた。


大野伴睦(1890~1964)_f0368298_00130673.jpg

大野伴睦(1890~1964)_f0368298_00130704.jpg

大野伴睦(1890~1964)_f0368298_00130817.jpg

大野伴睦(1890~1964)_f0368298_00130660.jpg


「伴ちゃん」の愛称で親しまれた元自民党副総裁・大野伴睦。官僚を嫌い、義理人情に厚い政治家として活躍。また、「サルは木から落ちてもサルだが、代議士が落ちればただの人」という名文句をも残した。「政治は義理と人情」をモットーとした政治家らしく、宿敵であった三木武吉とタッグを組んで保守合同を実現させて自民党を育て上げ、新幹線問題では岐阜県民と国鉄の中立をして岐阜羽島駅を設置して問題解決にあたり、タカ派の政策集団「青嵐会」を結成した後の農林水産大臣・中川一郎や番記者として読売新聞の渡邉恒雄を寵愛するなど、エピソードには事欠かない。夢にまで見た首相にはなれず、志半ばで病に倒れた大野伴睦の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「大野伴睦 きみ之墓」とあり、側面に墓誌が刻まれている。また、墓域入口には、虎の骨董品蒐集が趣味であった大野自ら手に入れた虎の置き物が飾られている。戒名は「大宸院殿従客日睦大居士」。

by oku-taka | 2022-11-06 00:24 | 政治家・外交官 | Comments(0)