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永田雅一(1906~1985)

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永田 雅一(ながた まさいち)

実業家
1906年(明治39年)〜1985年(昭和60年)

1906年(明治39年)、京都府京都市中京区三条通油小路下ルに生まれる。生家は染料と友禅の問屋であったが、3歳頃から家運が傾きはじめ、工場が火事になったり、女中と小僧が金を持って駆け落ちしたりで転落に拍車をかけた。やむなく両親は同じ中京区の御池通神泉苑町に小さい家を建てて引越し、商売を縮小したのだが、父が友人の借金の保証をして破産の憂目を見ることになった。そのため再び転居し、同じ町内で新しく借家住いの境涯になった。13歳のとき、小学校卒業と同時に上京。当時東京証券交換所で常務をしていた親戚を頼って「小僧にしてくれ」といったが、小僧になるのにも中学くらいの学歴が必要だった。そこで補欠試験をうけて大倉商業(現在の東京経済大学)に入学。しかし、父が47歳で脳出血のため突如急死し、両親健在のうちに永田家を復興させたいという念願は挫折。その失意も手伝って大倉商業を4年で中退した。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。永田は青年団の一員として整理に働き、その月の18日には避難民を送る長崎丸に便乗を許されて神戸に行き、京都に帰ることができた。しかし、英雄主義的な気持ちから次第に社会主義にかぶれていき、色々なデモや集会に参加。一時は京都のヤクザ「千本組」に籍をおき、永田は警察官に夜となく昼となく尾行される身の上になっていき、これを嘆いた母から父の位牌を膝の前にして折檻され、家を追放された。家を追われた永田はマキノ兄弟との縁から1925年(大正14年)、日本活動写真(現在の日活)京都撮影所に入所。無声映画時代の映画のロケ現場は見物客からおひねりが飛び交い、それ自体が興行のようなものだった。永田はこのおひねりを拾い集め、撮影仲間と女郎屋へ繰り出すという毎日だった。一方、駆け出しの永田は便利屋として働き、持ち前の雄弁さと、人を外らさぬ社交術で、藤村義朗や浅岡信夫、望月圭介らに可愛がられ政界への足場を築く。1934年(昭和9年)、サラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。同年、日活を退社して第一映画社を創立し、自前のスタジオにて映画を製作。しかし、1936年(昭和11年)に同社は解散。その後は松竹の大谷竹次郎の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となる。しかし、竹中労の『聞書き アラカン一代』によると、撮影所所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田がそのまま大谷の傘の下に入ったとしており、引き抜きや労務管理の汚れ仕事を受け持つ別働隊であったと暴露している。永田の泣きの芝居の一週間前には東宝から金を引き出していた日活の堀久作常務(当時。後に社長)が逮捕され、日活と東宝の提携が調印後、壊されている。何もかも日活配給網を得んとする松竹の野望から始まり、小林一三(阪急阪神東宝グループ創業者)の「大東宝」構想との衝突が根本にあったとされる。1942年(昭和17年)、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知すると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に京都選挙区から立候補したが、落選。1947年(昭和22年)、大映の社長となる。同年、アメリカ視察旅行から帰国し、大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意する。1948年(昭和23年)、中日ドラゴンズの赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収。1948年(昭和23年)1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが、12月に別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となる。しかし、1949年(昭和24年)1月に公職追放となる。間もなく追放解除となり、社長に復帰。大映では、社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた。」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)。1951年(昭和26年)、個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。永田は『羅生門』制作立案の段階で無関心であり、試写では途中で席を立った。その後も、海外で続々と受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分の会社の作品をこき下ろしていた。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てた。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して、当時の狂句は「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄している。この受賞を契機として、その後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。『地獄門』では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作。その結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っており、アカデミー特別賞も受賞した。1953年(昭和28年)、パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故にプロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。1953年(昭和28年)、松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ、五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年(昭和29年)に映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、その日活も加わってテレビ業界への対抗策と化した六社協定に発展する(後に新東宝が倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子や田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺した。1954年(昭和29年)、菊池寛賞を受賞。1957年(昭和32年)、高橋ユニオンズを吸収合併し、大映ユニオンズとなる。リーグ総裁の永田は当時の7チームでは日程が組みにくいとして、この年に最下位となったチームを消滅させようと提唱したが、結局自身がオーナーであった大映ユニオンズが最下位となった。1958年(昭和33年)、毎日オリオンズと対等合併し、大毎オリオンズとなる。この時は形式上毎日新聞社との共同経営ではあったが、法人格と各種記録は毎日が存続しつつも、経営面では大映が存続した形の逆さ合併だったため、大映側の永田がオーナーに就任し、「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年(昭和35年)、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズで三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任した。このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。以降、自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だが、長谷川が入団当初の投手ではなく野手として一定の成績を収めたことと、小山正明と山内一弘の「世紀のトレード」を実現させた実績はあったものの総じてチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせてベンチに電話をかけて監督の濃人渉に選手交代を指示するなど現場への介入も多かったため、批判も受けた。一方、時には市川雷蔵などの大映のスターたちを連れながら足しげく観戦に訪れる永田はファンから愛され、オリオンズが勝った試合後に永田の出待ちをし、永田の姿が見えると拍手を送るファンもいた。1962年(昭和37年)、私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場「東京スタジアム」を建設。しかし、その後の東京球場はチームの不調も重なって不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と頑なに拒んだ。開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった。その一方で、日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。この様な状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田に諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、ほとんど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれてゆく。1969年(昭和44年)、経営難により、盟友であった岸信介の仲介でロッテをスポンサーに付け、ロッテオリオンズとなる。翌年10月7日の西鉄戦、パ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田さんおめでとう」の喝采と共に優勝監督の濃人や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った。その歓喜の瞬間からわずか3か月後の1971年(昭和46年)1月、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡、同時にオーナー職を中村長芳に譲ることとなった。無念のうちに球界を去ることになった永田は、記者会見で「魂はロッテ・オリオンズの選手の上にあり。成田、木樽、山崎、有藤……。たとえユニフォームのマークは変わっても、選手の魂とわたしの魂はいつもいっしょだよ。小山よ、未練で言うんじゃない、是が非でも巨人を破って日本一になってくれ。目の中に入れても痛くないオリオンズを、選手たちを人手に渡すのは…」と語って言葉を失い号泣した。その中にあって、長谷川一夫の引退、山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させて娘婿の関係にあった市川雷蔵の死、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、1971年(昭和46年)12月23日に東京地方裁判所より破産宣告を受けて大映は倒産。倒産間際に湯浅憲明が、組合からの突き上げを食らいながら完成させた、大映最後の映画作品『成熟』の本社試写では「出来たのか、出来たのか」と女子職員に支えられながら号泣。また、倒産間近となったとき、社宅の前で「ここは抵当に入っている、諸君にはどうか倒産させないためにも、ここ(社宅)を出て行ってもらえないか」と頼み込んだ。その社宅は、約20年前に永田が社員に向かって「諸君、ここには今何もないが、いずれプールや遊園地を造る、ここにいる赤ん坊が20歳になったときには素晴らしい施設が完成しているだろう!」との大見得を切りながら演説した場所だった。その場にいた20歳の青年たちから「あの時の約束はどうした、プールや遊園地はどうした!」と罵声が浴びせられ、これにショックを受けた永田は卒倒寸前となり、腕を抱えられながら退場したという。それでも、1976年(昭和51年)に永田プロダクションを設立。同年、永田の跡を継ぐことを狙っていた徳間康快の徳間書店の子会社となって映画製作に復帰していた大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界に復帰した。熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介主演で映画『日蓮』を製作した。1985年(昭和60年)10月24日、急性肺炎のため死去。享年79。没後の1988年(昭和63年)、野球殿堂入りを果たした。


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大言壮語ゆえに「永田ラッパ」の愛称で知られた永田雅一。大映社長として『羅生門』『雨月物語』『地獄門』などを製作し、ヴェネツィア・アカデミー・カンヌといった名だたる国際的な映画賞に輝き、日本映画を世界的にまで押し上げた。また、プロ野球の球団オーナーともなり、パ・リーグの初代総裁も務めた。膨大なエネルギーと人脈、そしてお金を持ってしてその地位を確固たるものとした永田は、良くも悪くも「ワンマン」という言葉が似合う昭和の名物社長であった。喜怒哀楽を激しく振り撒き、昭和の映画界と球界に君臨した永田雅一は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「永田家之墓」とあり、墓誌はなさそうである。

by oku-taka | 2022-11-05 23:55 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)