人気ブログランキング | 話題のタグを見る

小野清子(1936~2021)

小野清子(1936~2021)_f0368298_04142325.jpg


小野 清子(おの きよこ)

体操選手・政治家
1936年(昭和11年)〜2021年(令和2年)

1936年(昭和11年)、宮城県岩沼市に生まれる。生後3ヶ月で父が亡くなり、一家は秋田県秋田市の伯父の家に移住。中学の部活で最初はバレーボールをやっていたが、バレーボール部の顧問が体操部の顧問も兼ねており、誘われて体操をはじめる。その後、秋田北高等学校に進学し、2年生から3年生にかけて国体に連続出場して共に団体2位、3年生のときにはインターハイで個人総合6位に入賞する。1952年(昭和27年)、国民体育大会で同じ秋田県出身の体操選手・小野喬と知り合う。彼の勧めで東京教育大学(現在の筑波大学)体育学部に入学し、師弟として指導を受けるうちに互いに恋が芽生えるようになる。3年生のときには、メルボルンオリンピックに向けた予選に出場。しかし、平均台から落ちてしまい、選考漏れとなる。1958年(昭和33年)、東京教育大学(現在の筑波大学)体育学部を卒業し、慶應義塾大学体育研究所に就職。同年、小野喬と結婚した。その後は慶應義塾大学体育研究所に勤務しながら体操の技能を磨き、1960年(昭和35年)のローマオリンピックに夫婦そろって出場。体操競技団体4位、個人総合15位となった。1961年(昭和36年)6月、長女を出産。これを機に引退するつもりだったが、この年に故郷の秋田で国体があったことから、「どうしても出てほしい」と言われて、現役続行を決断。出産からわずか2カ月で練習を再開し、秋の国体に出場した。1962年(昭和37年)、世界選手権の個人総合で11位となる。1963年(昭和38年)、長男を出産。競技引退を考えていたが、体操関係者の説得を受けて競技を続けた。1964年(昭和39年)、東京オリンピックに夫婦そろって連続出場。1男1女の2児の母として、赤の長袖レオタードに白のエレガンスシューズ姿で演技をこなし、体操競技で団体銅メダルを得た。東京オリンピック終了後に現役を引退。その後は、中央教育審議会委員など、各種審議会委員を務めてスポーツを通じた青少年教育に従事した。また、日本の民間スポーツクラブ第1号となる「池上スポーツ普及クラブ」を東京都大田区に創設。学校体育以外での青少年の体づくりと、スポーツの普及を目的とし、幼児から成人、選手育成まで目的に応じたコースを設置した。1986年(昭和61年)、第14回参議院議員通常選挙に当時の総理だった中曽根康弘の要請で立候補。スポーツ施設の充実と改善を掲げ、東京都選挙区で初当選となった。以降、五輪メダリスト初の国会議員として中曽根派に所属し、第18回参議院議員通常選挙での落選を挟み、通算3期18年間議員を務めた。1998年(平成10年)、「サッカーくじ法」の成立に尽力。totoの本場イタリアを自費で視察し、日本では反対の声も根強かったが「スポーツ振興の財源になる」と粘り強く訴えた。2003年(平成15年)、第1次小泉第2次改造内閣で初入閣。国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(青少年育成及び少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(食品安全担当)の3ポストを兼任し、第2次小泉内閣でも留任した。その後も、女性初の参議院予算委員長、自由民主党紀委員会副委員長を歴任した。このほか、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長や日本オリンピック委員会理事、国際養神会合気道連盟の会長や日本オリンピアンズ協会、日本バスケットボール協会の副会長などスポーツ・文教関係の役職を歴任した。2007年(平成19年)、3期の任期満了と共に政界から引退。10月より、日本スポーツ振興センターの理事長を務めた。2008年(平成20年)4月、長年に亘るスポーツ界並びに政界への功績により、日本のスポーツ選手経験者としては初となる旭日大綬章を受章。2015年(平成27年)5月、日本バスケットボール協会副会長に就任。2016年(平成28年)、国際オリンピック委員会(IOC)から五輪運動の発展に寄与したとして「五輪オーダー(功労章)」が授与された。2021年(令和2年)1月中旬、自宅で転倒して骨折。入院治療中に新型コロナウイルスに感染し、感染症指定医療機関で治療を受けた。1度は回復したものの、容体が急変。3月13日、死去。享年85。没後、従三位に叙することが決定した。


小野清子(1936~2021)_f0368298_04142301.jpg

小野清子(1936~2021)_f0368298_04142203.jpg

小野清子(1936~2021)_f0368298_04142428.jpg


「ママアスリート」の先駆けとして活躍した小野清子。夫婦でローマ、東京と2大会連続でオリンピックに出場。特に後者では、体操女子日本史上唯一のメダルとなる銅メダルを獲得。夫婦で五輪出場しただけでなく、自国開催のオリンピックにおいて夫婦でメダリストという、未だ誰も成し得ない偉業を達成した。また、メダリスト初の国会議員としても活躍。スポーツ選手経験者としては初となる旭日大綬章を受けた彼女であったが、最期は新型コロナウイルスで命を落とすことになってしまった。21世紀の東京オリンピックを見ることなく去ってしまった小野清子の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「小野」とあり、両側に墓誌が建つ。また、小野喬・清子夫妻の墓誌の裏には2人の略歴が刻む。戒名は「慈観院妙操日清大姉」。

by oku-taka | 2022-10-29 04:17 | スポーツ | Comments(0)