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音丸(1906~1976)

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音丸(おとまる)

歌手
1906年(明治39年)〜1976年(昭和51年)

1906年(明治39年)、東京市麻布区(現在の東京都港区)麻布箪笥町に生まれる。本名は、永井 満津子。常磐津の名取りだった祖母の影響で、6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わされた。13歳の時、美声を買われて橘流筑前琵琶を修行し、旭翁派の名手としても知られるようになる。17歳のときには春日派の小唄を始めたが、25歳のときに溺愛していた弟が亡くなり、重いノイローゼになる。その頃、近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。そこで、その民謡の会に出席。歌声を披露したところ、彼女の持つ勘の良さと美声は菊池淡水の絶賛するところとなり、リーガルレコードに推薦され、本名で『草津湯もみ唄』を吹き込んだ。そのレコードを聴いた古賀政男が、当時重役をしていたテイチクに誘い『泪の京人形』を吹き込ませた。この頃、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していたが、芸者歌手は地方巡業に際して時間拘束として莫大な花代がかかることから、苦肉の策として芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性をさがしていたところ、下駄屋のお内儀である彼女に白羽の矢が立った。1934年(昭和9年)9月、正式に契約を結んだコロムビアから本名で『おけさくづし』『主は国境』でデビュー。同年、芸名を音丸とし、『君は満洲』をレコーディング。音丸の由来は、「音は丸いレコードから」という洒落にちなんで名付けられた。1935年(昭和10年)、『船頭可愛や』が大ヒット。1936年(昭和11年)には『下田夜曲』『博多夜船』が大ヒットし、小唄勝太郎や市丸などの芸者歌手を向こうにまわしての人気を獲得する。次第に出演依頼やレコードの吹き込み、ラジオ・映画の出演に多忙となり、家業の下駄屋は人手に委ね、下駄屋の養子となっていた夫とも協議離婚し、音丸は歌一筋の道を歩み始める。その後、弁士の井口静波と再婚。二人は二枚看板で全国を慰問し、興行に歩いた。太平洋戦争後も全国巡業が続き、1947年(昭和22年)には高知で当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。1948年(昭和23年)、キングレコードに移籍。同年、人吉を訪れた際に『五木の子守唄』を見つけ出し、初めて同曲をレコーディングする。しかし、ヒットは出せず、その後コロムビアに復籍した。コロムビアに戻った音丸は、懐メロブームに乗って東京12チャンネルの『なつかしの歌声』に出演をしたり、1972年(昭和47年)にはステレオ録音で往年のヒット曲を吹き込んだが、この頃から急に視力が低下し、活動に支障をきたし始める。1976年(昭和51年)1月18日12時30分、急性心不全のため東京都世田谷区世田谷のマンションで死去。享年69。


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連続テレビ小説『エール』の藤丸として脚光を浴びた、『船頭可愛や』の歌い手・音丸。履物屋の娘として生まれながら、レコード会社の意向で芸者歌手となった異色歌手の一人であった。そうした背景から、ファンに「下駄屋の姉御!」と野次られることもあったそうだが、本人は「よくご存知!」と返すなど、非常に腹の据わった性格であったようである。小唄や民謡の経験が活かされ、『船頭可愛いや』『博多夜船』といった叙情的な歌が実に上手かった音丸。芸者歌手として生きた彼女の墓は、東京都品川区の天妙国寺にある。墓には「永井家之墓」とあり、側面に墓誌、右横に『船頭可愛や』の歌碑が建つ。戒名は「樂生院妙女日照大姉」。

by oku-taka | 2022-10-29 03:58 | 音楽家 | Comments(0)