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中川一郎(1925~1983)

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中川 一郎(なかがわ いちろう)

政治家
1925年(大正14年)〜1983年(昭和58年)

1925年(大正14年)、北海道広尾郡広尾町に生まれる。豊似小学校時代は小柄でおとなしい一方、家に帰っては両親を助けて野良仕事に励んだ。筋骨たくましい身体は、小さい時からの労働の名残である。学校では勉強に精を出し、得意な科目は一貫して算数・数学であった。北海道庁立十勝農業学校、宇都宮高等農林学校(現在の宇都宮大学農学部)を経て、1947年(昭和22年)9月に九州帝国大学農学部農業土木科を卒業。農林省の役人を志望していたが、東京にいたのではメシが食えないと懸念し、志願して北海道庁に入った。当初は家業を継ぐ予定だったが、広尾町会議員に出世した父が北海道庁に陳情へ出かけた際、ろくに相手にもされなかった口惜しさから、「お前は役人になれ」と言われ、両親思いの一郎は父の命ずるまま地方役人になった。中川が北海道に戻った時、北海道は社会党の天下であり、革新系の田中敏文が社会党に担がれて北海道知事に当選した。中川は可愛がってくれた教授が書いた紹介状を持参して、九州大の先輩にあたる田中のもとを訪れたが、来客が多くなかなか面会しようとしない田中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった。1951年(昭和26年)、北海道開発庁が設置され、開発担当官となる。1953年(昭和28年)、北海道開発庁長官を務めていた大野伴睦の秘書官となり、大野に見出されることとなる。大野はわずか7カ月の在職で、自民党総務会長に転じた。後任の長官は緒方竹虎で、副総理との兼務であった。中川はそのまま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、第5次吉田内閣総辞職のあと、開発庁の開発専門官に異動させられた。1959年(昭和34年)、大野は中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請した。父は大反対したが、大野に惚れ込んだ中川は12年間の役人生活に別れを告げ、身分の不安定な政治家秘書になる決意をした。1963年(昭和38年)、大野の勧めで旧北海道5区から第30回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・伊東正義・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。1970年(昭和45年)、佐藤栄作・田中角栄両首相から大蔵政務次官に任命される。1973年(昭和48年)には渡辺美智雄、石原慎太郎らと「青嵐会」を結成し、若手タカ派として名を売った。また、福田赳夫に私淑し、後年は福田と政治行動を共にする。1977年(昭和52年)、福田赳夫内閣を自民党国民運動本部長として支え、保守派の活動を通じて親交のあった作曲家の黛敏郎に党友組織自由国民会議初代代表に要請し、受諾される。同年、福田内閣改造内閣で農林大臣(省庁改称のため後に農林水産大臣)、鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。1978年(昭和53年)、自民党総裁選挙で福田が敗れ、12月6日に内閣総辞職をしたが、「予備選はインチキだ」として、農水相辞任に際し、福田内閣の最後の閣議で、内閣総辞職の署名を断固として拒否しぬいた。単なるポーズや嫌がらせでなく、大平政権誕生阻止のため、喧嘩師・中川一郎が最後の大博打に打って出たと思われた。1979年(昭和54年)、石原慎太郎、長谷川四郎、松沢雄蔵、長谷川峻らを結集して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。1982年(昭和57年)10月、自民党総裁選挙・予備選に中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎らと共に立候補。当時は立候補に国会議員50名の推薦が必要であったため、福田派から安倍に投票する予定の議員の名前を借りての出馬だった。結果は、中曽根一人で全党員の6割近い支持票を集め、中川は最下位だった。この時期には奇行が目立つようになり、酒飲み仲間の玉置和郎は「中川一郎の酒の飲みっぷりは本来、朗らかそのものだった。酔っぱらうとね、もっている財布を芸者たちにバーンと投げ出す。好きなだけもっていけというわけだ。だから芸者にもてた。元来が、お金というものにあまり執着しなかった。それが同友会をつくった頃からかなあ、酔っぱらうと前後不覚になり、崩れるようになった。同時に愚痴っぽい酒飲みとなった。いつだったかも、腰が抜けるほどに酔っぱらってね、小便しに行くのに、どこが便所だかわからなくなり、ドアのところで放尿しようとするんだ。あわてて便所まで連れて行き、無事にすんだけど、ああいうこと、昔はなかったな」と後に証言した。総裁選後間もない1983年(昭和58年)1月9日、札幌パークホテル10階1022号室バスルームにて中川が死んでいるのを妻の貞子が発見した。当初死因は「急性心筋梗塞」と発表されたが、2日後に「自殺」に訂正された。享年57。中川の自殺から間もなく、高知県にいた後藤田正晴官房長官には、1月9日午前の段階で北海道警察と古巣の警察庁のルートを通じて中川の自殺を知らせる急報が伝えられた。急報を聞いた後藤田は中曽根康弘総理に電話でことの真相を伝えた後に、記者団に対して中川が急死したことを発表したが、その死因は遺族と中川の側近に配慮して伏せていた。中川の遺体は、1月9日のうちに空路で札幌から東京の中川邸まで運ばれた。 総裁予備選挙が終わってから中川は「夜、眠れない」と強く訴えるようになり、睡眠薬を服用していたという。 中川の死は自殺とされ、遺書も残されていないが、原因としては「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった」というのが定説である。また、中川の秘書から北海道選挙区選出参議院議員となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされ、死の2日後には火葬されている。このとき、高木は中川の検案書作成に絡んで「急性心筋こうそくの疑い」という嘘の検案書を病院に作らせたことで、後に虚偽診断書作成教唆罪に問われ、虚偽診断書作成罪に問われた病院長と共に同年11月上旬に略式命令を受けて罰金刑が言い渡された。このように、遺書もなく政治家としては早急な火葬、また死因の変更などから、中川の死はいくつかの疑問点があるとして今もって議論されることがあり、特に他殺の可能性について指摘されることもしばしばある。


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選挙と酒と喧嘩が強く、その豪快な性格と見た目から「北海のヒグマ」と呼ばれた中川一郎。タカ派議員として知られ、渡辺美智雄、石原慎太郎らと「青嵐会」を結成するなど、自他ともに認める熱烈な国粋主義者であった。また、開拓農家出身という土着性と庶民性あふれたムードを売りものとし、政治家としても異色の存在であった。少数派閥を率いて総裁候補と目されながらも、総裁選での資金繰り、妻との不和などから精神を病み、果ては謎の死を遂げるまでに追い込まれてしまった。鈴木宗男から「豪快さと繊細さが真の二面性」と評された中川一郎の墓は、東京都渋谷区の諦聴寺にある。墓には「中川家之墓」とあり、右側に墓誌と顕彰碑が建つ。また左側には、2009年(平成21年)に亡くなった長男で政治家の昭一の顕彰碑も建つ。戒名は「大乗院釋聖尊」。

by oku-taka | 2022-10-29 03:46 | 政治家・外交官 | Comments(0)