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江戸川乱歩(1894~1965)

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江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ)

作家
1894年(明治27年)〜1965年(昭和40年)

1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現在の名張市)に生まれる。本名は、平井 太郎(ひらい たろう)。2歳の頃、父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現在の亀山市)、翌年には愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であり、中学校では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。在学中に処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事を経験する。1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現在のシンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど、地域交流の仕事に回された。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという。1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビュー。当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、デビュー作以降は、あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていた。1925年(大正14年)、森下の企画で『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたり、2作目の『心理試験』が好評を博す。これを機に会社を辞めて小説家一本となったが、探偵小説家としては早くも行き詰まり、連続掲載の6作目に当たる『幽霊』は自ら愚作と評し、小説家になったことを後悔したという。しかし、森下の紹介で『写真報知』や『苦楽』にも掲載を持てることとなり、探偵小説専門誌である『新青年』には載せられないような通俗的な作品の執筆で生計が安定した。創作活動初期は、欧米の探偵小説に強い影響を受け、『D坂の殺人事件』『心理試験』など、本格派推理小説(探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されず、『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』など、衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスクといったフェティシズム、残虐趣味の要素を含んだ通俗探偵小説などの変格ものと称される作品が一般大衆に歓迎された。1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、病欠の山本有三の代役として、朝日新聞に『一寸法師』を連載。作品は評判がよく、映画化もされたが、自身は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪。以後、戦前は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる。1928年(昭和3年)8月、14か月の休筆のあと、自己の総決算的中篇『陰獣』を発表。変態性欲を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、横溝正史により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。1929年(昭和4年)8月、かねてより執筆依頼のあった『講談倶楽部』に通俗長編『蜘蛛男』を連載。自身の趣向であった「エログロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだったが、作品は大好評で、これを契機として続けざまにヒット作を連発させる。1931年(昭和6年)5月、『江戸川乱歩全集』全13巻が平凡社より刊行開始。総計約24万部の売り上げを記録し、経営の行き詰まっていた平凡社を建て直すきっかけになった。また、海外作品にも通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残している。1933年(昭和8年)11月号、推理小説の専門誌『新青年』に『悪霊』の連載を開始。『新青年』編集部の懇請に応じて執筆を開始し、大衆小説を書いていた乱歩が2年ぶりの本格推理小説復帰と注目されたが、途中で創作意欲をなくし、2号続けて休載した後、4月号に読者へ「失敗のひとつの理由は、種々の事情の為に、全体の筋立ての未熟のまま、執筆を始めた点にもあったと思いますが、抜け殻同然の文章を羅列するに堪えませんので、ここに作者としての無力を告白して、『悪霊』の執筆をひとまず中絶することに致しました」との詫び状を書いた上で中断となった。その後も執筆が再開されることはなく、永遠に未完の作品となった。また、木々高太郎、小栗虫太郎らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。結果、1935年(昭和10年)頃より評論家として活躍し始め、評論集『鬼の言葉』を発表した。1936年(昭和11年)、初めての少年ものである『怪人二十面相』を雑誌『少年倶楽部』に連載。この作品は少年読者の圧倒的支持を受け、以後、創作レパートリーに少年ものを定期的に加えるようになった。しかし、日本が戦争体制を強化していくに従い芸術への検閲が強まっていき、日中戦争に勃発した1937年(昭和12年)頃より探偵小説は内務省図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。1939年(昭和14年)以降は検閲が激化し、『芋虫』が発禁となる。1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼が途絶え、旧著がほぼ絶版になった。12月、日本が太平洋戦争に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)や内務省の検閲対象とならない海軍省の会報に論評を載せるなどしていた。この時期、少年時代のノートから気になった近年の新聞記事など取り溜めておいた資料をスクラップブックに貼るようになった。他見させるつもりはなかったようであるが、没時までに9冊に増え、後に『貼雑年譜』として復元・刊行され、乱歩自身や日本の推理小説史の貴重な史料となっている。戦後は創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演を行う。また、1946年(昭和21年)から始めた愛好家の集まり「土曜会」を発展させ、1947年(昭和22年)に探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の結成を行う。評論の分野では、『随筆探偵小説』を上梓。1951年(昭和26年)には『幻影城』、1954年(昭和29年)に『続・幻影城』、1958年(昭和33年)に『海外探偵小説作家と作品』が上梓される。 また、1949年(昭和24年)、雑誌『少年』1月号から連載の『青銅の魔人』で少年向け小説を再開。少年探偵団シリーズは子どもたちから絶大な支持を受け、昭和30年代頃から映像化された。このように、戦後においても大衆は乱歩の「本格もの」よりも「変格もの」を支持し、作家としても日本・海外を問わず既出のトリックがある本格推理が軽蔑されたため、乱歩だけではなく変格ものが中心に執筆され、乱歩が本意としていた本格ものはあまり反響がなかった。1954年(昭和29年)、探偵作家クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定。同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となり、推理作家の登竜門となる。1961年(昭和36年)、紫綬褒章を受章。 1963年(昭和38年)、探偵作家クラブを社団法人日本推理小説作家協会と改組し、初代理事長に就任。晩年は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。1965年(昭和40年)7月28日、くも膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で死去。享年70。没後、正五位勲三等瑞宝章を追贈された。


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怪人二十面相や明智小五郎といった印象的なキャラクターを生み出し、日本に探偵小説の基礎を築いた巨人・江戸川乱歩。従来の推理物とは異なり、サディズムやグロテスクをトリックで彩っていく手法は大衆の心を鷲掴みにし、怪奇幻想文学史と後年の官能小説界に大きな影響を残した。しかし、当人は本格派の探偵小説を志向し、そうした作品をいくつか執筆したが、全く反響を得られなかったのは、本人にとって悲劇だったかもしれない。妖しさ漂う怪奇小説で一時代を築いた江戸川乱歩の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「平井家之墓」とあり、左側に略歴が刻まれた墓誌が建つ。戒名は、「智勝院幻城乱歩居士」。

by oku-taka | 2022-09-19 23:34 | 文学者 | Comments(0)