人気ブログランキング | 話題のタグを見る

加藤芳郎(1925~2006)

加藤芳郎(1925~2006)_f0368298_20584761.jpg

加藤 芳郎(かとう よしろう)

漫画家
1925年(大正14年)〜2006年(平成18年)

1925年(大正14年)、東京府豊多摩郡代々幡町(後の東京都渋谷区)に生まれる。幼い頃から絵を描くのが好きで、父は加藤の描く絵を見ては「美術学校に入れてやろう」とほめるのが常だったという。また、『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画作品に親しんだ。しかし、10歳の頃に父が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、兄たちが家財を質入れして食料を調達するなど、生活が苦しくなり、美術学校入りの夢はいったん断念する。病院の給仕として昼間に働きながら、旧制東京府立第六中学校夜間部に通学。1939年(昭和14年)、雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったことをきっかけに、プロ漫画家の夢を抱く。その後、『週刊少国民』『オール讀物』『モダン日本』などで入選を重ね、近藤日出造主宰の『漫画』で一等入選するに至った。府立六中を卒業後、川端画学校で学んだ後、東京都防衛局職員となるが、ほどなくして「北支の歩兵部隊」の隊員として出征。古北口で敗戦を迎えた。1945年(昭和20年)12月に復員後、都庁に復職するが、所属していた防衛局が廃止されて消滅していたため、建設局公園緑地課に移籍し、案内看板の製作に従事する。また、『漫画』誌への投稿を再開し、主宰の近藤日出造から直接プロへの転向をすすめられる。1948年(昭和23年)、都庁を退職。専業漫画家として独立し、『オンボロ人生』『オレはオバケだぞ』『千匹の忍者』などの連載作品を通じ、庶民生活のペーソスをナンセンスに描いた作風で人気となり、横山泰三、荻原賢次とともに「戦後派三羽烏」と呼ばれた。1954年(昭和29年)、毎日新聞夕刊で『まっぴら君』の連載を開始。1957年(昭和32年)、『芳郎傑作漫画集』で第3回文藝春秋漫画賞を受賞。1975年(昭和50年)、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ)の司会を担当。全国ニュースで伝えられることがないB級事件について、リポーターがフリップボードや再現フィルムを使って解説したこの番組は、常に30%以上の視聴率を獲得する日本テレビの看板番組となり、加藤も人気タレントとなった。以降も、『テレフォン人生相談』(ニッポン放送)パーソナリティー、『連想ゲーム』(NHK総合テレビ)の白組・男性軍のキャプテンなどで親しまれた。特に『連想ゲーム』では、洒脱な話術とヒントの出し方で人気を博した。1981年(昭和56年)、日本漫画家協会の理事長に就任。1992年(平成4年)には会長となり、同協会の社団法人化に尽力した。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。1988年(昭和63年)、第36回菊池寛賞を受賞。1989年(平成元年)、NHK放送文化賞を受賞。1996年(平成8年)、勲四等旭日小綬章を受章。1999年(平成11年)、『まっぴら君』で第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。2000年(平成12年)、東京都文化賞を受賞。2001年(平成13年)、『まっぴら君』が連載1万3600回を超え、新聞連載漫画の最長記録を樹立。しかし体調不良が原因で6月23日掲載を最後に休載し、11月に終了を宣言した。同作は連載47年間で13615回に達し、全国紙では空前の連載記録となった。2005年(平成17年)1月に胃癌が発覚。3月から入退院を繰り返していたが、12月に風邪をこじらせて呼吸困難に陥る。2006年(平成18年)1月6日午後10時36分、呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去。享年80。


加藤芳郎(1925~2006)_f0368298_20584651.jpg

新聞連載漫画の第一人者である加藤芳郎。1954年から47年間続いた『まっぴら君』の連載は1万3600回を超え、全国紙の連載としては空前の記録となった。また、巻き癖の強い乱雑な髪型、小さく整えた口ひげ、洒脱な話術でタレントとしても活躍。特に、NHKの人気クイズ番組『連想ゲーム』では白組男性軍キャプテンを長らく務め、繰り出す秀逸なヒントに感心させられ、時に出される違反ヒントには笑わせてもらった。チャプリン似の穏やかな笑顔と持ち前のユーモアさで親しまれた加藤芳郎の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。洋型の墓には「加藤家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「妙筆院孤芳日泰居士」。

by oku-taka | 2022-08-18 21:00 | 漫画家 | Comments(0)