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ジャッキー吉川(1938~2020)

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ジャッキー吉川(ジャッキー よしかわ)

ミュージシャン
1938年(昭和13年)〜2020年(令和2年)

1938年(昭和13年)、東京都八王子市に生まれる。本名は、板岡公一(いたおか こういち)。法政大学第一中・高等学校(現在の法政大学中学高等学校)在学中は水泳の選手として全国大会で入賞したほどの運動神経の持ち主であったが、高校2年時に映画『グレンミラー物語』を観てジーン・クルーパに憧れ、独学でドラムを学ぶ。法政大学経済学部に入学後、先輩でブルー・コメッツのリーダーだった大橋道二の紹介で同バンドのバンドボーイとなる。しかし、程無くして一時的にバンドを離れ、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」や新宿のキャバレー専属バンドに参加。ところが、相変わらずの貧乏生活に加え、バンドの女性歌手からドラミングを酷評されたことをきっかけにブルー・コメッツへ戻り、再びバンドボーイをこなしながらドラムの演奏技術を磨き続けた。1961年(昭和36年)、ブルー・コメッツの正式メンバーとなり、1963年(昭和38年)からはリーダーを務めた。1965年(昭和40年)、ザ・ピーナッツのバックとして、この年のNHK紅白歌合戦に出演。これに飽き足らなくなったヴォーカルの井上忠夫(後の井上大輔)が、「バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ」とバンドの方向性を見直すよう進言し、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(後の作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけた。1966年(昭和41年)、日本コロムビア(レーベルは洋楽部門のCBSコロムビア)から『Blue Eyes』を発売。10万枚以上のセールスを記録し、4ヶ月後の7月には、同じくCBSレーベルから同曲の日本語盤『青い瞳』が発売された。日本語盤は50万枚以上のセールスを記録し、グループ・サウンズ史の起源となった。同年、ザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演の前座として出演。その後も、『青い渚』『何処へ』など順調にヒットを連ねていき、1967年(昭和42年)に発売された『ブルー・シャトウ』は150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。同年、美空ひばりの希望で『真赤な太陽』のレコーディングに参加。音楽的能力を高く評価され、その後たびたび共演する。1968年(昭和43年)にはエド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米。このとき、欧米のロックやポップスに圧倒された井上忠夫は、帰国後すぐにグループの解散を打ち出すつもりだったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。同年発売されたムード歌謡的な傾向が強いシングル『さよならのあとで』がヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、1971年(昭和46年)の『雨の賛美歌』から原点回帰を見せつつ、独自のサウンドを展開して曲を次々と発表した。また、この年に発売したカバーアルバム『G.S.R.』では、バート・バカラック風のアレンジの曲に挑戦するなどした。しかし、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり、レコードの売り上げと人気は徐々に下がり、他のGSバンドの解散が続く中でも活動を続けたが、巻き返しはならず、1972年(昭和47年)10月にコロムビアが契約を打ち切り。井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入してビクターから再デビューした。1977年(昭和52年)にもメンバーチェンジしたが、1984年(昭和59年)には小田も脱退した。時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称。一方、GS時代のメンバーと懐メロ番組に出演することが度々あったが、2000年(平成12年)に井上が自殺したことを機に、オリジナルメンバーが再集結。2002年(平成14年)、GS時代のメンバーで本格的に再結成した。バンドは全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続けていたが、2010年(平成22年)に転倒が原因で頭を強打。脳出血を患ったが、リハビリを経て復帰。2017年(平成29年)にはメンバーと出演したテレビ番組で、くも膜下出血を患ったことを明かした。2020年(令和2年)4月20日午後3時頃、所属事務所の関係者が群馬県前橋市の自宅を訪問した際、ベッドで横たわった状態で亡くなっている姿を発見された。享年81。没後、第62回日本レコード大賞において特別功労賞を贈られた。


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グループサウンズ黄金期を支えた「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のリーダー、ジャッキー吉川。力強い腕と、水泳選手として全国大会入賞の経験を持つほどの圧倒的な体力で、当時としては激しくドラマチックな奏法でグループに華を添えた。老いてもなおそのドラム捌きは健在で、それだけに突然の訃報は、メンバー含めて驚きをもって迎えられた。堺正章の「田邊昭知が久々にドラムを叩くにあたり、ドラム教室に通って肩慣らししようと思ったら、講師がジャッキー吉川だったので帰ってきた」という定番ネタが懐かしく偲ばれるジャッキー吉川の墓は、東京都八王子市の風の丘樹木葬墓地にある。公園のような明るく開放的な墓地には水が流れ、真ん中の通路に刻まれたネームプレートに、本名「板岡公一」の名がある。

by oku-taka | 2022-08-18 20:46 | 音楽家 | Comments(0)