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山野浩一(1939~2017)

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山野 浩一(やまの こういち)

作家・競馬評論家
1939年(昭和14年)〜2017年(平成29年)

1939年(昭和14年)、大阪府大阪市港区に生まれる。市立昭和中学校、府立住吉高等学校を経て、1年浪人後の1959年(昭和34年)に関西学院大学法学部に入学。大学は阪神競馬場のすぐ近くにあったため競馬好きの学生が多く、山野も競馬好きになる。一方、「映画研究部」に入部し、1960年(昭和35年)に2年生で脚本・監督作『デルタ』を制作。『デルタ』はテレビ放映もされ、その際のゲストだった寺山修司と知り合う。1962年(昭和37年)、大学を中退。コマーシャル映画のプロダクションで1年間勤務した後、1963年(昭和38年)に上京。シナリオ学校に通うが、師事していた寺山修司から「映画を作る前に、戯曲や小説を書いたほうがいい」と勧められ、1964年(昭和39年)に処女戯曲『受付の靴下』と処女小説『X電車で行こう』を執筆。『受付の靴下』は寺山の紹介で『悲劇喜劇』誌に掲載された。『X電車で行こう』は「これはSFだ」といわれ、SFの同人雑誌『宇宙塵』に投稿して掲載されると、三島由紀夫、小林信彦らから高い評価を受け、『SFマガジン』に転載され、華々しく作家デビューとなった。その後は、『SFマガジン』誌等でSF小説、SF評論を執筆する傍ら、自身が原作を手掛けた『戦え!オスパー』や、『鉄腕アトム』、『ビッグX』、『快獣ブースカ』といったテレビアニメ、特撮の脚本家としても活動する。1965年(昭和40年)、『X電車で行こう』の出版記念パーティで日本中央競馬会の宇佐見恒夫と知り合い、『優駿』に原稿を執筆。これを契機に競馬関係の原稿も多数執筆した。1969年(昭和44年)、『SFマガジン』に掲載された評論「日本SFの原点と指向」で、日本の既成のSF作家たちを「アメリカSFのコピーに過ぎない」と痛烈に批判。これに対して荒巻義雄が反論し、日本SF史に残る論争となった。山野はその作家・評論家としての問題意識から、1960年代にイギリスで起きていたニュー・ウェーブSF運動に共鳴し、『季刊NW-SF』を自ら創刊。後に編集長をつとめる山田和子等とともに日本のニュー・ウェーブSF運動の旗手として活躍した。また「NW-SFワークショップ」も主宰。集まったメンバーには、鏡明、荒俣宏、川又千秋、森下一仁、亀和田武、新戸雅章、永田弘太郎、志賀隆生、高橋良平、山形浩生、大和田始、野口幸夫、増田まもるらがいた。1970年(昭和45年)、日本で最初のフリーハンデ(後に週刊競馬ブックと提携した「全日本合同フリーハンデ」となる)の作成に携わり、競走馬評価の体系の確立に寄与。また、競走馬の血統に関する書籍が希少だった1970年代初頭から『名馬の血統』などの血統本を著すなど、血統評論家の第一人者としても知られるようになり、1977年(昭和52年)に出版された『サラブレッド血統事典』は、10万部近い発行部数に達するなど、競馬関係書籍としては異例の売れ行きを見せた。1978年(昭和53年)、サンリオSF文庫の創刊に深く関わり、顧問として『フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム(英語版)』 を出版。以降も海外の先鋭的なSF小説・前衛文学の紹介に寄与した。1990年代以降は、競馬評論家としての活動が主となり、1990年(平成2年)には『サラブレッドの誕生』でJRA賞馬事文化賞を受賞した。また、有識者としてダート競走格付け委員会、NARグランプリ選考委員会の委員も務めた。2007年(平成19年)、世界SF大会の「speculative japan」パネルに出席。翻訳家の増田まもるが創設したサイト「speculative japan」の理念に賛同したことから、2008年(平成20年)1月に日本SF作家クラブへ入会した。2013年(平成25年)、『NOVA 書き下ろし日本SFコレクション10』に30年ぶりとなるSF短編「地獄八景」を発表した。晩年は夫人の介護にあたっていたが、2017年(平成29年)2月の検査で食道癌が発覚。その後は妻の介護を行いながら闘病生活を送っていたが、7月には余命2か月半と診断された。7月20日、治療のため病院に行く予定だったが、時間になっても来なかったことから担当者が自宅を訪ねたところ、倒れている山野を発見。病院に搬送されたが、東京都八王子市の病院で死去。享年77。没後、第38回日本SF大賞功績賞、地方競馬における功績からNARグランプリ2017の特別賞を授与された。


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SFと競馬という異世界において名を残した山野浩一。薦められるがまま書いた小説がSFと言われ、足を踏み入れたSFの世界。華やかにデビューした後、SF小説の評論、テレビアニメの脚本制作、「季刊NW-SF」を立ち上げるなど、日本におけるニューウェイブSFの旗手として多岐にわたる活躍を見せた。しかし、80年代に入るとSFの世界からは忽然と姿を消し、競馬の世界に。競馬の中でもほとんど見向きもされていなかった血統に注目し、想像力を刺激するかのような文学作品チックで血統の魅力を伝え、その分野の代表的な存在となった。異色すぎるが故に、今やあまり語られることのなくなった作家・山野浩一の墓は、東京都八王子市のメモリアルパーククラウド御殿山にある。洋型の墓には、名前とともに「Sanfte ruh!」と彫られ、カロート部分に墓誌が刻まれている。

by oku-taka | 2022-08-18 19:12 | 文学者 | Comments(0)