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石原慎太郎(1932~2022)

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石原 慎太郎(いしはら しんたろう)

作家・政治家
1932年(昭和7年)〜2022年(令和4年)

1932年(昭和7年)、兵庫県神戸市須磨区に生まれる。1936年(昭和11年)、海運会社に勤める父の転勤に伴い、北海道小樽市に転居。1943年(昭和18年)2月、再び父の転勤に伴い、神奈川県逗子市に転居。1945年(昭和20年)4月、神奈川県立湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)へ進学する。在学中はサッカー部に属し、レギュラーで試合に出場している。1948年(昭和23年)、立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間休学。休学中は文学・美術・演劇・音楽・映画に耽溺し、フランス語を学習。1951年(昭和26年)10月、父が脳溢血で急死。父の勤め先である山下近海汽船社長から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。1952年(昭和27年)4月、一橋大学法学部に入学。ここでは、柔道部とサッカー部に入部する。一方、社会心理学の南博ゼミに所属。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。その後、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。1954年(昭和29年)、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。1955年(昭和30年)12月、当時18歳だった石田由美子(後に典子と改名)と結婚。同年、『太陽の季節』が『文學界』に掲載され、第1回文學界新人賞を受賞。また、東宝の入社試験に合格し、助監督としての内定を得る。1956年(昭和31年)1月、『太陽の季節』で第34回芥川賞を受賞。当時史上最年少で、昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こし、同作はベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業後、東宝に入社するもまもなく退社し、嘱託となる。一方、『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活の映画俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となった。 映画が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊などを行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会(通称、映倫)が作られる契機となった。1957年(昭和32年)4月19日、長男・伸晃が誕生。同年10月、『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、以来『群像』には一度も執筆していない。1958年(昭和33年)、東宝で映画『若い獣』の監督を務める。また、大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。1959年(昭和34年)、文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を発表。三島由紀夫から「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」として、見事な傑作と評された。1960年(昭和35年)、隊長として、南米横断1万キロ・ラリーにラビットスクーターで参加。1962年(昭和37年)1月15日、二男・良純が誕生。その後、1964年(昭和39年)6月19日に三男・宏高、1966年(昭和41年)8月22日に四男・延啓が誕生する。1967年(昭和42年)、読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。このとき、危険な前線に武器を携帯しなかったのは日本人だけという状態を目の当たりにし、政界入りの原点となった。1968年(昭和43年)、第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清、国際政治学者の若泉敬らをブレーンに引き入れ、史上最高の301万票を集めて初当選。田中角栄の金権選挙を批判した。1969年(昭和44年)11月 、『スパルタ教育』を出版。70万部を売り上げるベストセラーとなる。また、『日本について語ろう』(小田実と共著)で文藝春秋読者賞を受賞。1970年(昭和45年)、書き下ろし長編小説『化石の森』で、第21回芸術選奨文部大臣賞を受賞。1972年(昭和47年)11月25日、参議院議員を辞職。12月10日、衆議院選挙に旧東京2区から無所属で立候補して当選。衆議院に鞍替えした。1973年(昭和48年)、田中角栄による中華民国と国交断絶し、中華人民共和国と国交を結ぶ『日中国交正常化』に反対。7月、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成する。1975年(昭和50年)3月18日、衆議院議員を辞職。4月の東京都知事選挙に立候補し、美濃部亮吉の革新都政に挑戦するも、次点(233万票)で敗れる。1976年(昭和51年)12月、第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった一方で、「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。1979年(昭和54年)、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成。1981年(昭和56年)、弟・裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。1983年(昭和58年)、第37回衆議院議員総選挙が公示される前に何者かによって新井将敬の政治広報版に掲載された選挙ポスターに「1966年に北朝鮮から帰化」というシールが貼られるという事件が発生し、それを石原の公設第一秘書が関与していたことが判明した。石原陣営が対立候補に対する刑事事件として、世間に知れ渡ることとなり、民族派右翼の大物として知られた野村秋介も、この件で石原の事務所に乗り込み抗議した。石原は「秘書が勝手にやった事」とした上で正当性を主張したが、保守系メディアも『週刊新潮』を別にして、器物損壊罪という犯罪であることもあり、明確な擁護論を展開しなかった。また、当時石原が派閥の領袖であったことから党内の信用も失墜するなど社会的非難を浴びたため、石原は在日朝鮮人から「在日朝鮮人排撃主義者」として非難されることとなり、憎悪の対象となった。石原の関与も問われたが、第一秘書が立件されたものの、石原自身に捜査が及ぶことはなかった。同年、自由革新同友会の代表となるが、勢いが振るわず、1984年(昭和59年)に清和政策研究会へ合流する。1987年(昭和62年)11月6日、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。1988年(昭和63年)、『生還』で平林たい子文学賞を受賞。5月、新東京国際空港(現在の成田国際空港)を視察。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。1989年(平成元年)、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬。しかし、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。同年、『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版し、125万部を売り上げるベストセラーとなる。1990年(平成2年)、第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区にて長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。また、1992年(平成4年)から7年間、三島由紀夫賞選考委員を務めた。1995年(平成7年)4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した。また、同年から芥川賞の選考委員も務め、辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。1996年(平成8年)7月、弟・裕次郎をテーマにした『弟』を発表。120万部を売り上げるベストセラーとなり、同作で毎日出版文化賞特別賞を受賞した。1998年(平成10年)、『法華経を生きる』が33万部を売り上げるベストセラーとなる。1999年(平成11年)4月11日、東京都知事選挙に立候補。立候補表明の記者会見での第一声の「石原裕次郎の兄でございます」という挨拶が話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。当選後の会見では「都庁で会おうぜ」と発して再び話題を呼ぶ。以降、4期14年の長期政権を築き、ディーゼル車排ガス規制、東京マラソンの開催、新銀行東京の発足、首都大学東京の立ち上げ、などの様々な政策を推し進める。2000年(平成12年)7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。2001年(平成13年)、『わが人生の時の人々』で文藝春秋読者賞を受賞。2002年(平成14年)、『老いてこそ人生』が82万部を売り上げるベストセラーとなる。。2007年(平成19年)5月、“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。2010年(平成22年)4月10日、たちあがれ日本の応援団長に就任。2011年(平成23年)、『新・堕落論』が25万部を売り上げるベストセラーとなる。都知事4期目に入ったこの頃から国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年(平成24年)10月25日、都庁にて緊急記者会見を行い「本日をもって(東京都知事を)辞任し、新党を結成する」と表明。会見後に都議会議長に辞表を提出した。11月13日、たちあがれ日本を改称する形で太陽の党を結党。共同代表に就任する。11月17日、太陽の党が日本維新の会に合流。代表に就任した。12月16日、第46回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックで当選。衆議院議員として、17年ぶりに国政に復帰を果たした。衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年(平成25年)2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。また、「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と安倍総理および麻生副総理に、石原が都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った。国政復帰後は、主に自主憲法の制定を強く訴え、現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。その一方、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。2014年(平成26年)3月、石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が前年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。さらに、結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、石原は5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、6月5日付で「新党準備会」を発足した。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分され、7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。11月、衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。2015年(平成27年)、旭日大綬章を受章。2016年(平成28年)、田中角栄を「俺」という一人称で記した自伝風小説『天才』を発表。92万部を売り上げるベストセラーとなった。9月、築地市場移転問題に際し、建設許可を与えた当時の都知事である石原の自宅前にワイドショーを含めた記者、リポーターが張り込む事が増え、10月7日、小池都知事は知事定例記者会見の場で石原に対して公開質問状を送付し、公開の場で意見開陳するよう求めた。しかし、石原は公開ヒアリングの内容を明かし、自身は小池と一対一での面談を求めていたが、小池からメディアを入れた公開ヒアリングを提示された事を難色を示し、特に過去に脳梗塞を発症し、回復はしているものの、この時点で半身に障害が残っており、記憶についても曖昧であると見解を示した。石原は小池に対して質問状の内容を返答し、25日に回答内容を公開した。しかし、小池が望む回答ではなく、用地交渉や土壌汚染対策などは部下に任せており「記憶にない」、「13年半の在任中に決裁した案件数は膨大であり、本書の回答以上の記憶はない」とした上で、石原が知事に就任する前からの資料を全て公開するよう小池に対して要望し、「無責任に聞こえるかもしれないが、記憶の問題ではなく、資料がすべてを物語ってくれる」と回答し、道義的責任については、「専門的な内容の事項について道義的責任をご質問いただくことに些か複雑な思いを感じざるを得ないが、市場関係者の皆さんを含め、東京都民の皆さんや国民の皆さんに対しては、結果としてこのような事態に立ち至っていることについてまことに申し訳なく思う」と陳謝し、謝罪の弁を述べている。当時市場長を務めていた比留間英人東京メトロ副会長は、当時の石原知事から、地下にコンクリートの箱を埋める案について、検討を指示されたと証言した。一方、石原元知事は、「専門委員から聞いて、私が逆にこんな話があると言った」との説明を行った。小池は石原の回答に対して非常に不満を抱き、再度ヒアリングを要請する事を求める見解を示し、2017年(平成29年)1月の都議会定例会開会以後、当該事象の石原に対する調査として、2月22日から都議会は豊洲市場移転問題に関する調査特別委員会において審議を行っており、都議会の全会一致にて石原と元副知事であった濱渦武生を参考人招致する事が決定した。3月20日、石原が招致され、特別委員会及び百条委員会設置前から主張していた、用地買収交渉は「部下に一任しており、都庁全体の流れで市場移転を豊洲に決定し、組織の長として移転を裁可した責任は認める」と証言し、政治問題化させた小池に対して、「科学者が安全と言うのに、なぜ移転しないのか不可解だし、不作為の責任が問われるべきだ。都民を第一に考えて移転しなければならない」と批判を展開した。2021年(令和3年)10月、病院で膵臓癌の再発と「余命3か月」程度との宣告を受ける。高齢で持病も抱えていたことから、抗癌剤治療はせずに少しでも痛みや辛さを和らげるための緩和ケアを選択。以来、自宅と介護施設を行き来する、闘病生活を送っていた。2022年(令和4年)2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年89。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。


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作家として、政治家として、常に話題を振り撒き続けた石原慎太郎。小説『太陽の季節』で颯爽と登場して以来、その歯に衣着せぬ発言で常に物議を醸す存在であった。国粋的な思想で、同調できる部分もいくつかあったが、自分とは反対の意見は絶対認めない独善的なその性格が個人的には合わない人であった。毀誉褒貶という言葉が見事に当てはまる石原慎太郎の墓は、神奈川県逗子市の海宝院にある。没後作り直された墓相学に基づく五輪塔の墓には「石原家先祖各霊菩堤」とあり、左側面に生前に希望していた「青嵐報国」が刻まれ、右側に墓誌が建つ。戒名は「海陽院文政慎栄居士」。

by oku-taka | 2022-06-19 14:05 | 文学者 | Comments(0)