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杉原千畝(1900~1986)

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杉原 千畝(すぎはら ちうね)

外交官
1900年(明治33年)〜1986年(昭和61年)

1900年(明治33年)、岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)に生まれる。幼少期は、福井県、三重県、岐阜県、愛知県と転居を繰り返し、旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現在の早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。医師になることを願っていた父の意に反した進学だったため仕送りもなく、早朝の牛乳配達など複数のアルバイトを掛け持ちしていたが、米騒動によってアルバイト先が次々と倒産していき、学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。千畝は大学の図書館にこもり、連日ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧するなどの猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズの独軍撤退に関する演説」の英文和訳などの難問を制して合格した。1919年(大正8年)11月、早稲田大学を中途退学し、外務省の官費留学生となった。この官費留学生の募集では、英独仏語の講習生募集は行われず、英語で受験した千畝は当初スペイン語の講習を希望していたが、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めでロシア語講習生となった。その後、官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ハルピン学院で聴講生としてロシア語を学んだ。1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)し、最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、満州里(領事館)へ転学命令。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙つきの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じ、外務書記生の身分のまま母校のハルビン学院でロシア語講師を務めることになった。1924年(大正13年)、外務省書記生として採用され、ハルビン総領事館などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。その間の1926年(大正15年)には、600ページあまりにわたる報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。1932年(昭和7年)3月、上司の大橋忠一総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、書記官としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道および付帯施設の周到な調査をソ連側に提示し、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。ところが、1935年(昭和10年)に満洲国外交部を退官。このハルビン在職期に、ユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験し、また、破格の金銭的条件で関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されるなど、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「大日本帝国の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。千畝の拒絶に対し、関東軍は当時の妻であったクラウディアを「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由となった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。満洲時代の蓄えは離婚の際にクラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡ったときと同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけ、千畝は知人の妹である菊池幸子と結婚。日本の外務省に復帰する。1937年(昭和12年)、ヘルシンキの在フィンランド日本公使館に赴任。当初は念願であったモスクワの在ソビエト連邦日本大使館に赴任する予定であったが、ソビエト連邦側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。日本の外務省はソ連政府への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられた。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、千畝の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。1939年(昭和14年)、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、8月28日カウナスに着任する。着任直後の9月1日にドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日、リトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。1940年(昭和15年)6月15日、ソビエト軍がリトアニアに進駐する。ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがおり、グットヴィルトはオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、1940年(昭和15年)5月にバルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けてカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクは、グットヴィルトらの国外脱出に協力を約束。6月末にグットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクにこの件のことを相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んだ。ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインのついたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだ。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちがカウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。千畝は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打った。しかし本省からは、「行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」との発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。日本では神戸などの市当局が困っているためこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、千畝はビザ発給の理由を説明している。東京の本省は条件不備の難民やユダヤ人の問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟を締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んできたことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省は怒りも露わにし、さらに翌年も「『カウナス』本邦領事ノ査證」(2月25日付)と、千畝は名指しで厳しく叱責された。窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対するビザ発給の可否を問い合わせる。つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系工業家」をあえて採り上げるためである。そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖したあとになって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させたうえで当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化した。一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わりぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む状態になり、さらに痛くなって動かなくなった腕を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。手を痛めた千畝を気遣い、千畝がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」ことダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら、一か月あまり寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族とともに老舗ホテル「メトロポリス」に移った。千畝は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、千畝は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして列車と並んで泣きながら走っている人が、千畝たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていた。カウナス領事館が閉鎖されてから、千畝はプラハ、さらにケーニヒスベルクに赴任。これは、名目上の上司だった大鷹正次郎・ラトビア大使から松岡外相への進言によるもので、カウナス領事館の千畝のみをそのままケーニヒスベルクに移転させ、対ソ諜報活動に従事させることは、ドイツ側の納得を得られないだけでなく、ソ連側からもドイツに抗議がないとはいえない。したがって同地に正式の総領事、または領事を任命し、千畝をその下に置いて、対ソ関係事務を担当させた方がよいと思われるというものである。1941年(昭和16年)8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに対して、「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書(1941年8月7日付)を提出し、そこにはドイツの「軍事情報に並々ならぬ関心を示していた」として、「日本領事杉原」の名前が筆頭に挙げられ、「ポーランド及び英国に親しい人物」として名指しで非難されていた。北満鉄道買収交渉のハルビン時代からソ連にマークされていた千畝は、またドイツ諜報機関の最大の標的の一つでもあった。亡命ポーランド政府の情報将校たちが、カウナスの日本公使館の手引きにより在欧日本大公使館やバチカンの後援を受け、さらにスウェーデンを経由してロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る、全欧規模の諜報網をドイツ国家保安局が知るところになり、それゆえ千畝はケーニヒスベルクからの即刻退去を求められたのである。千畝を忌避したのは東プロイセンの大管区長官、エーリヒ・コッホである。のちに美術品略奪者、ウクライナのユダヤ人虐殺者として悪名を馳せるコッホは、大量のユダヤ人逃亡を助けた千畝に当初から強い反感を持っており、ケーニヒスベルク着任から一か月後にやっと千畝を引見した。ほどなくベルリン大使館から千畝の東プロイセン在勤をコッホが忌避した旨を伝えられ、千畝は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる。その後、ヨーロッパ各地の友好国を転々とし、各職を歴任。第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)11月16日、来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、1947年(昭和22年)4月5日に「恵山丸」で博多湾に入港した。この間、岡崎勝男外務次官から退職通告書が送付される。この通告書は、日付と宛名だけが手書きで書き込めるようになっているガリ版刷りのもので、退職を自明の前提としたものである。外務省退官からしばらくは鵠沼で雑貨商を営み、糊口をしのいだ。その後は、連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院講師、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とする。一方、1949年(昭和24年)2~10月まで参議院資料課主事を務める。ロシア語が堪能であったことから、1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ駐在員となる。1968年(昭和43年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ(Yehoshua Nishri)と28年ぶりに在日イスラエル大使館で再会。1969年(昭和44年)、蝶理へ勤務。12月には、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。このとき初めて、本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。1971年(昭和46年)、国際交易モスクワ事務所長となる。1978年(昭和53年)、国際交易モスクワ支店を退職。日本に帰国した。「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは一貫していた。こうした外務省の姿勢に、西ドイツ(当時)のテレビ協会の東アジア支局長を務めていたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンが真っ先に抗議し、1981年(昭和56年)に出版した『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と記した。 1983年(昭和58年)9月29日、フジテレビが深夜放送で「運命をわけた1枚のビザ——4,500のユダヤ人を救った日本人」を放映。千畝本人も老齢ながら出演し、レポーターの木元教子からのインタビューに答えた。1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢のため千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、入院先の鎌倉市内の病院で死去。享年86。千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつての日露協会学校(後のルビン学院の)教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る300人余あまりが参列。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、2000年(平成12年)10月10日になってのことだった。


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第二次世界大戦中、多くのユダヤ系難民を「命のビザ」で救い、「日本のシンドラー」として広く世界にその名を知られることとなった杉原千畝。「行先国の入国手続を完了し、旅費及び日本滞在費等の携帯金を有する者にのみ発給せよ」という外務省の非礼な通達を、「人道上、どうしても拒否できない」として訓令に背き、実に約6,000人の国外脱出を助けた。戦後、こうした行動を「独断行為」と咎めた日本政府からの解雇通告、心ない人間から「国賊」と蔑まれる日々を送ったが、「杉原ビザ」によって救われた人々が立ち上がり、没後14年にしてようやく日本政府からの謝罪と名誉回復にこぎつけた。筆者自身も、フジテレビで放送された加藤剛主演の『命のビザ』で杉原千畝の存在を知ったが、その貫いた信念と凛とした姿勢に感動したものだった。日本が誇る人道主義者、杉原千畝の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。長らく、墓の場所は秘匿とされていたが、夫人亡き後に情報が解禁された。洋型の墓には「杉原家」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2022-06-19 13:11 | 政治家・外交官 | Comments(0)