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岡田時彦(1903~1934)

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岡田 時彦(おかだ ときひこ)

映画俳優
1903年(明治36年)〜1934年(昭和9年)

1903年(明治36年)、東京市神田区宮本町(現在の千代田区外神田2丁目)に生まれる。本名は、高橋 英一(たかはし えいいち)。父の放浪癖のため、川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とした。旧制逗子開成中学校には抜群の成績で入学したが、伊勢佐木町の映画館で観た『名金』に感動して、学業そっちのけで浅草六区に足を運ぶほど映画に熱中し、後に中退した。1920年(大正9年)、山下公園に撮影所をもつ横浜の映画会社・大正活映(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。「野羅久良夫」または「野良久良男」の芸名をもらう。8月、同社設立第一作であるトーマス・栗原監督の『アマチュア倶楽部』で映画デビューを果たす。続いて12月公開の『葛飾砂子』に出演。その後、本名の「高橋英一」名義で何本かの短編理想映画に出演し、同社文芸顧問として脚本を担当していた谷崎潤一郎にかわいがられ、「岡田時彦」という芸名をもらう。1922年(大正11年)、栗原監督病臥のため大活が解散。東京・蒲田の松竹キネマに吸収される。それに伴い、前年すでに「大活」を退社していた同期入社の内田吐夢(当時俳優)、井上金太郎らのいる京都へと移り、帰山教正の映画芸術協会、マキノ省三のマキノ等持院撮影所を経て、兵庫県芦屋の帝国キネマ芦屋撮影所、大阪府下中河内郡小阪町(現在の東大阪市)の帝国キネマ小阪撮影所などを転々とする。1925年(大正14年)、小阪撮影所が東邦映画製作所に改組された第一作として、伊藤大輔監督の『煙』に主演。伊藤監督の主宰する伊藤映画研究所(伊藤大輔プロダクション)に稲垣浩らと三か月ほど住み込みの研究生となる。同年、日活大将軍撮影所に入社。1926年(大正15年)2月、溝口健二監督の『紙人形春の囁き』に出演。同作はキネマ旬報ベストテン7位に入った。10月、阿部豊監督のソフィスティケイテッド・コメディ『足にさはつた女』に出演。1927年(昭和2年)3月には『彼を繞る五人の女』に主演。同作では岡田嘉子や当時18歳の夏川静江と共演し、ベストテン2位に入った。モダンでスマートな阿部監督作品にて近代的な知性と憂鬱を漂わせた繊細な演技を披露し、映画誌「映画時代」のファン投票では当時の大人気スター・阪東妻三郎に400票以上も差をつけて第1位に輝き、トップスターの仲間入りをした。その後も、『母いづこ』(阿部豊監督)、『激流』(村田実監督)、『日本橋』(溝口健二監督)などに出演し、中野英治とともに昭和初期の典型的なモボ像を確立した。1929年(昭和4年)、松竹蒲田撮影所に移籍。小津安二郎監督の信頼を受け、『その夜の妻』、『お嬢さん』、『淑女と髯』、『東京の合唱』、『美人哀愁』に出演。どこにでもいるような小市民を飄々と演じて新境地を開拓し、松竹蒲田の哀愁とユーもアをたたえた小市民喜劇において才能を発揮した。また、鈴木傳明、高田稔と共に松竹蒲田の三羽烏と呼ばれた。しかし、1931年(昭和6年)9月、鈴木、高田らとともに退社し、不二映画社およびその撮影所「不二スタジオ」を豊島園に設立。阿部豊監督の作品に主演するが、1年足らずで解散となる。1933年(昭和8年)、京都に舞り、大活の同期だった内田吐夢が発掘した入江たか子の「入江ぷろだくしょん」、かつて不二映画社の作品を配給した新興キネマ京都太秦撮影所(帝国キネマ太秦撮影所の後身)に入社し、溝口健二監督の『瀧の白糸』、『祇園祭』に出演。しかし、村田実監督の『青春街』に出演した頃から持病だった結核が悪化。12月には大阪市の大阪赤十字病院に入院した。年末にいったん小康を得たものの、1934年(昭和9年)1月16日、兵庫県西宮市の寓居で死去。享年30。


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無声映画時代を代表する二枚目の一人であった岡田時彦。その近代的な容姿と演技で一躍スターとなり、流行語ともなった「モダンボーイ」の代表的存在として女性の支持を得た。映画関係者からも愛され、脚本家時代の谷崎潤一郎は芸名の名付け親となり、岡田の弔辞も担当したのみならず、一人娘・岡田茉莉子の芸名の名付け親ともなった。溝口健二は病臥に伏していた岡田を自身の作品に主演させることを決め、回復を二か月の間待っていたという。多くの人に愛されながらも、結核のため30歳の若さで世を去った岡田時彦の墓は、神奈川県横浜市の久保山墓地にある。墓には「岡田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。入口には、松竹蒲田撮影所から贈られたという石灯籠もある。戒名は、谷崎潤一郎が授けた「清光院幻譽雪瑛居士」。

by oku-taka | 2022-05-25 00:01 | 俳優・女優 | Comments(0)