人気ブログランキング | 話題のタグを見る

寺田ヒロオ(1931~1992)

寺田ヒロオ(1931~1992)_f0368298_22574628.png

寺田 ヒロオ(てらだ ヒロオ)

漫画家
1931年(昭和6年)〜1992年(平成4年)

1931年(昭和6年)、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。本名は、寺田 博雄。新発田市で育ち、新潟県立新発田高等学校時代は野球部に所属する。同時期に少年漫画雑誌『漫画少年』と出会い、漫画投稿を始める。卒業後は知人の紹介で地元警察の事務職へ就職するが、電電公社(現在のNTT)の電報電話局に転職。電報電話局では社会人野球の投手としても活躍し、都市対抗野球大会にも出場した。その後、井上一雄・福井英一の漫画『バットくん』に刺激され、1953年(昭和28年)漫画家になるために上京。同年の大晦日に東京都豊島区のトキワ荘に入居する。入居当初は、向かいの部屋に手塚治虫が暮らしていた。トキワ荘に次々と入居してくる漫画家らと『新漫画党』を結成。漫画誌に合作、競作を発表するなど、様々な活動をする。面倒見のいいトキワ荘のリーダー的な存在として知られ、後輩である安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)や赤塚不二夫らは漫画関係だけでなく私生活の相談に乗ってもらったこと、また度々家賃等の金銭を貸してもらった思い出などを語っており、寺田を慕った。特に安孫子の著作である『まんが道』では寺田のそうしたエピソードが多数描かれ、後に実写ドラマ化もされた。一方、創作活動に生真面目な年下の後輩達の前で「頼もしい兄貴分」でいることには相応の心的苦労もあり、唯一そうした悩みを吐露していたのが、投稿漫画で知り合って以来の友人で、寺田とは正反対の無頼漢として知られる棚下照生だった。寺田の死後、棚下は「寺田は自分を律してたから…そして、そこからはみ出してはいけない…っていう。かなり自分の中に重圧があって、苦しんで生きてたと思うんですね。自分で自分に規律を持って、そこからはみ出してはいけない…っていう。私なんか全く反対の人間だから、それが羨ましいって彼は言うんです。逆に私は、寺田の鉄のような部分が羨ましかったんですけど、だけど寺田は私のような八方破りな生き方が羨ましい…っていう。結局、彼は自分がそういう生き方をしたいと思うことを、漫画に描いてみたかったんじゃないでしょうか。寺田は、描いてる人間に自分を同化させようとしてたところがある」と振り返っている。1956年(昭和31年)、『野球少年』で連載をはじめた『背番号0』、1959年(昭和34年)週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』の創刊号から連載された『スポーツマン金太郎』などの野球漫画で人気漫画家となり、試合の場面に中継アナウンサーのコメントを入れるようにした嚆矢であるとされる。『スポーツマン金太郎』は1960年(昭和35年)の第1回講談社児童まんが賞を受賞した。『暗闇五段』は不慮の事故で失明、記憶喪失となった柔道家を主人公にした作品で、後に千葉真一主演で『くらやみ五段』としてテレビドラマ化された。この間の1957年(昭和32年)6月、結婚を機にトキワ荘から退居。しかし、週刊漫画誌の隆盛にともない、どんどん速度を上げていく仕事のペースについていけなくなったという。『週刊少年サンデー』に連載した『スポーツマン金太郎』の終了後には、憂鬱な気持ちになり「もうへとへとだった。やめたい」と申し出たとされる。また、1960年代からの漫画業界は、劇画ブームの影響から、リアルで映像的な画調と刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、一貫して正統派の児童漫画だけを書き続ける寺田の作風は、時流からも取り残されるかたちになっていった。寺田は劇画ブームへの強い反感を示し、仲間内での集まりでもこれを度々批判した。安易な劇画ブームへの批判に同感だった仲間たちも、会う度に批判だけを繰り返す寺田の言動に、かつての頼もしさを感じなくなっていった。その劇画に対する過剰なまでの反感が昂じ、全く面識のない著名な劇画作家に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。最後には、自分が執筆している雑誌の編集長に、劇画作品の連載を全て打ち切るように進言するという荒っぽい行動まで出たが、独善的な考えも目立ったために聞き入れられず、周囲からも反感を買い、逆に自分の連載が打ち切られるという顛末となった。寺田は『えすとりあ』季刊2号(1982年)で、「ちょうど高度成長の始まりで、大きいことはいい事だ。儲けることは美徳であると、モーレツ時代に突進して行ったわけで、漫画も雑誌もドギツク、エゲツナクなる一方で」と批判的に語っている。これらの出来事を積み重ねるうち、元の生真面目さまで豹変していった寺田は、徐々に著作のペースを減少させ、寡作となっていった。1964年(昭和39年)、『暗闇五段』の終了を最後に、週刊誌の連載から撤退。活動の場は小学館の学習雑誌などの月刊雑誌に限定されるようになったが、作風も正統派の児童漫画とは言えなくなったとの批判が増え、ついに1973年(昭和48年)には漫画業そのものから完全に引退した。その際、手塚がしばらく休んで思いとどまるようにと説得したものの、耳を貸さなかったという。手塚や他の漫画家仲間も、内心では頑固な寺田にほとほと困っていたが、元々の漫画への信念と技量を思い、何とか復帰させようと幾度も諭したが、功を奏することはなかった。この時期、トキワ荘時代の仲間に送られた手紙に書かれてあったのは、現役時代からは想像もつかないほど弱気な内容で、受け取った方も驚いたという。漫画家を引退した一方、1981年(昭和56年)4月には、『漫画少年』の歴史を記録した「『漫画少年』史」を編纂・出版した。引退後は、トキワ荘時代の仲間とすら殆ど会わなくなり、トキワ荘の取り壊し直前に当時のメンバーが集うテレビ番組が企画がされた際も、寺田は出演依頼を断った。このように人を避ける一方、助言を求めてきた漫画家志望の若者には、直接会ってアドバイスをすることもしばしばあったという。寺田は晩年の1989年(平成元年)に毎日新聞のインタビューに答え、「60年(1985年)にちょっとしたカゼがもとで、全身につぎつぎに病気が出た。手塚さんの葬儀にも出席できなかったぐらいです」と明かし、漫画家仲間との断交は、自身の健康問題に起因するものだったことを示唆している。1990年(平成2年)6月23日、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう)を自宅に呼んで宴会を催し、終了後、三々五々去ってゆく仲間たちにいつまでも手を振り続け、「もう思い残すことは無い」と家族に話したという。翌日、藤子Ⓐは礼を伝えるため、寺田宅に電話をかけたが、寺田は電話口に出ず、妻を通じて「今後一切世俗とは関わらない」との旨を伝えた。この時の寺田について、藤子Ⓐは「緩慢な自殺」と述べている。またこの時期、棚下によく電話をかけていたという。電話口で泣きながら「会いたい」と言う寺田に「今すぐ行く」と伝えると「いや、来ないでくれ」「会いたいけど、来ないでくれ」と訴える状況を振り返り、棚下もまた「結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな…。寺田は、ゆっくりゆっくり死んでいったんじゃないかな」と述べている。なお、この宴会の模様は鈴木がホームビデオで撮影しており、鈴木はこの時に撮影したビデオのコピーを寺田に進呈しており、遺族の話では彼は晩年そのビデオを繰り返し観ていたという。その後は一人自宅の離れに住み、母屋に住む家族ともほとんど顔を合わせることはなかった。朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、1992年(平成4年)9月24日に朝食が手つかずで置かれたままになっているのを妻が不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。妻は晩年の寺田について「身体が悪くなって、病院に行ってくれと頼んでも、行こうとしないんです。色々手を尽くして、あきらめました。この人は、もう死にたいんだなって…」と、ただ見守るしかなかった状況を語っている。1996年(平成8年)、映画『トキワ荘の青春』で、本木雅弘が主人公である寺田を演じ、藤子や石ノ森、赤塚らの後輩を年長者としてサポートしていくなか、徐々に時流から取り残されていく寺田の姿が描写されている。


寺田ヒロオ(1931~1992)_f0368298_22580990.jpg

寺田ヒロオ(1931~1992)_f0368298_22581074.jpg

週刊漫画雑誌の草創期に、スポーツをテーマとした漫画で人気を博した寺田ヒロオ。特に野球漫画においては、本格的な試合を漫画上で展開するだけでなく、放送席の実況を描き、主人公が実在のプロ野球球団に入団して実在の選手と一緒にプレイするといった斬新なシチュエーションを次々に生み出した。また、「テラさん」の愛称でトキワ荘のリーダー格としても知られ、先日亡くなった藤子不二雄Ⓐの自伝的漫画『まんが道』で、頼もしい兄貴分的な理想の先輩としても描かれた。しかし、その生真面目な性格、児童善導主義からくる劇画への批判で、時代から取り残されてしまった。トキワ荘の仲間が売れていく中でも商業的な漫画を否定し続け、そして苦悩するその姿は映画化もされ、その姿は実にせつないものがあった。晩年、トキワ荘の同窓会を自ら企画。その後は「俗世とは関わらない」と自宅の離れに住み、家族とも顔を合わせず朝から酒を飲む「緩慢な自殺」で静かに世を去った寺田ヒロオ。温厚な人格者でありながら、最期は闇の中へと沈んだ男の墓は、神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にある。墓には「寺田家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「博譽残夢漫歩居士」。

by oku-taka | 2022-04-17 23:01 | 漫画家 | Comments(0)