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坂井三郎(1916~2000)

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坂井 三郎(さかい さぶろう)

軍人
1916年(大正5年)〜2000年(平成12年)

1916年(大正5年)、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)に生まれる。5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋に病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京。新宿の府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学。しかき、成績不振で落第して退学処分となった。その後は実家に帰され、約2年間農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになり、スピードへの憧れがあって騎手になろうとしたが、本家の反対で挫折。次に、同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見たことから飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、結果は不合格。飛行機のある海軍に入れば近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験して合格。周囲は反対したが、1933年(昭和8年)5月1日に四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属された。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われる。受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊し、4月1日に初飛行。練習生の中では操縦が上手いほうではなく、単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。また、佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した。1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付となった。9月11日、第十二航空隊に配属され、勤務地の中国大陸九江に進出。10月5日、漢口空襲に参加。これが坂井の初出撃であり、指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗した。坂井は中華民国国軍のI-16戦闘機1機を撃墜。1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加。6月、占領した南昌基地に進出。10月3日、SB爆撃機12機編隊が漢口基地を空襲。坂井は迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。11月、上海基地に移動。1940年(昭和15年)5月、運城基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。1940年(昭和15年)6月、大村航空隊に配属され、内地に帰還する。8月、横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)を初めて見る。1940年10月17日、高雄海軍航空隊に配属。搭乗機が九六戦から零戦に変更されたため、坂井は名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で台湾の高雄空まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任した。零戦については、思い通りに動いてくれる格闘性能と燃料切れを気にせず空中戦に集中できる長大な航続力(≒滞空時間)から高く評価している。そのため、翼幅を削り速度が上昇し、他性能が低下した零戦三二型が導入された際には、操縦性、格闘戦の上から改悪であると意見している。1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島の三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場に進出する。4月10日、第12航空隊配属。12空の横山保大尉の希望で中国大陸に再進出。漢口基地から華中における作戦に従事。5月3日、重慶攻撃に出撃。6月1日、一等飛行兵曹に昇進。7月9日、梁山攻撃に参加。27日、成都攻撃に参加。8月11日、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲に参加。攻撃に参加する戦闘機はあらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流した。中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。坂井にとって零戦での初撃墜となる。8月21日、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜。ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。8月25日、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃。上空を制圧した。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃に参加。8月31日、岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への攻撃に指揮官新郷英城大尉以下零戦4機で参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。坂井は支那事変では実戦を数えるほどしかやらなかったと回想している。10月、台湾の台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属。坂井は台南空で先任下士官兵搭乗員であった。台南空では下士官のみの小隊も組まれ、坂井は初めて僚機を持つことになった。坂井は副長の小園安名中佐に頼まれ、新任で上官の笹井醇一中尉の戦闘教育を任せられたという。また、夜中に現地住民のニワトリを盗み出し、小園安名から「いやしくも日本海軍の軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られたが、その後も豚を盗みに行ったこともあったという。またある時は、軍で禁止されていた麻薬成分が含まれたカナカタバコを吸い、他の下士官・兵たちにもそれを勧めていたところを上官の笹井に見つかって「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片が入っているんだぞ」と注意されたがそれでも坂井はやめようとせず、台南空司令部の士官にだけ上等なタバコが支給されていることを批判した。すると笹井は怒りで唇を噛み顔を曇らせて立ち去ると、士官向けに支給された通常の煙草をいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ」と指示し、坂井の思惑通りになったこともあったという。12月8日、太平洋戦争が開戦。台南空はフィリピン・クラーク空軍基地攻撃に参加。第一中隊(新郷英城大尉指揮)の第三小隊(坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地を出撃。坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空の一式陸上攻撃機27機、一空の九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で米陸軍第21追撃飛行隊のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦を行う。坂井は零戦得意の左急旋回からの一撃でP-40戦闘機を大破、同機は滑走路に滑り込んだ。12月10日、空の要塞と呼ばれたボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機を日本が初撃墜した。戦後、坂井がAP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンに対し、この撃墜者が坂井であり、墜落するまで機影を見届けずに「戦果未確認」と報告したと語り、ラッセルが「あれは撃墜だった」と答える会見の様子が「日本タイムス」や「スターズ・アンド・ストライプス」に発表された。しかし、坂井は当日出撃はしたが、当時の台南空・三空の資料に記載されているB-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名前はない。戦闘行動調書によれば、交戦した豊田光雄、山上常弘、菊池利生、和泉秀雄、野澤三郎の協同撃墜であり、坂井は交戦していない。台南空は、12月25日よりスールー諸島のホロ島へ順次進出。1942年(昭和17年)1月16日、蘭印のタラカンに進出。1月24日、坂井はボルネオ島・バリクパパン上空哨戒中、米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の7機編隊を発見。台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で20分にわたり攻撃し、うち3機の大破。1月25日、坂井はバリクパパン基地に進出。2月5日、同基地を出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空で米陸軍第20追撃飛行隊のP-40戦闘機1機を撃墜。2月8日、新郷大尉指揮9機(新郷大尉、田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地を出撃。日本陸軍が上陸を開始したセレベス島マカッサル方面に対する爆撃に向かっていた米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の9機編隊とジャワ海カンゲアン島上空で交戦。零戦隊は、その後方から忍び寄り、B-17爆撃機の防御砲火が相対的に弱いと考えられた正面に回って攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破。2月18日、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空で蘭印軍のフォッカーC.XI-W水上偵察機1機を共同撃墜。2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍のブルースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から発射機銃弾160発で撃墜。4月1日、台南空は第25航空戦隊に編入され、ラバウル方面に移動する。4月16日、台南空はニューブリテン島のラバウルに進出。17日、ラバウルの前進基地となるニューギニア島東部のラエ基地に進出。この基地から連合国軍(米豪軍)のポートモレスビー基地まで近距離であり、台南空は、ポートモレスビー攻撃、連合軍のラエ基地爆撃の邀撃に従事する。この頃、坂井は遠方から油断した単独の敵機を発見し、後ろに回って死角である胴体の真下から隠れながら高度を上げて接近し、優位な位置を占めることに成功する運のいい巡り合わせがよくあり、隊内では坂井の落ち穂拾い戦法と笑い話になったという。5月27日、飛行機隊長中島正少佐指揮の零戦18機によるモレスビー攻撃に参加。6月9日、来襲する敵爆撃機の迎撃に参加。8月7日、ガダルカナル攻撃に参加。アメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fワイルドキャットとの戦闘があった。坂井曰く、はぐれた列機、柿本円次と羽藤一志が一機のグラマンに追われていたので助けに入り、単機巴戦の末撃墜したとのこと。しかし、サザーランド曰く、陸攻との戦闘で被弾した結果、グラマンは黒煙を吹き、機銃も故障した状態で零戦4機に追われる中火災が発生したので落下傘で脱出したとのこと。戦後このグラマンを調べた結果、機銃の故障などサザーランドの証言と一致した。日本の戦闘詳報では、坂井と列機の羽藤、そして別隊の山崎市郎平による共同撃墜となっている。この戦闘からの帰路、ガダルカナル島の上空において坂井はSBDドーントレス艦上(偵察)爆撃機の編隊を油断して直線飛行しているF4Fの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。坂井は右前頭部を挫傷して左半身が麻痺し、加えて右目も負傷。(左目の視力も大きく低下)計器すら満足に見えないという重傷を負った。坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と考えて体当たりを画策するが敵艦を発見できず、帰還を決意。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。正常な着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほど際どいものであったと語っている。坂井が受けた傷はラバウルの軍医では治療できず、内地に送還。坂井は、笹井醇一から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、虎は千里を行って千里を帰るという縁起から坂井がまた帰って来るように、笹井が父からもらった虎のベルトバックルを渡されたという。その後笹井は戦死したが、がっかりするだろうからという理由で坂井には半年間知らされず、知ったときは自分がついていたら死なせなかったのにと地団太踏む思いがしたという。横須賀海軍病院で手術を受けたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ち、左半身は痺れた状態だった。右目の視力を失ったことにより、搭乗員はもちろん軍人としてさえ勤務はできないであろうから軍人を辞めるように宣告された。市中での生計手段として指圧師や按摩師の道を勧められ、研修も受けていたが、転職する前に転院することになった。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(改称後の台南空)に行った坂井は、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得した。軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言ったことから、坂井は航空隊に留まることになった。台南空が内地で訓練する間、坂井が後輩たちをバットで殴る指導もあった。坂井はラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っている。10月、飛行兵曹長に昇進。1943年(昭和18年)2月、豊橋航空隊で搭乗員に復帰して訓練を行ったが、ラバウル進出直前の1943年(昭和18年)4月、大村航空隊に異動となり、教官に配属される。1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、横須賀航空隊に出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、中島正少佐指揮の零戦27機に参加し、硫黄島へ進出。中島は訓練を見る限り坂井は戦えるところまで目が治っていると考え、若いパイロットを元気づけるためにも出てほしいと頼まれたことで、坂井は右目の視力が完全に治っていない状態で前線に戻ることになった。横空派遣部隊は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった252空他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に加えられた。まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、7,8機引き連れた坂井の雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する。坂井は一機と旋回戦になって左ひねり込みに誘いこみ巴戦で撃墜、視界の利かない右側後方から不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ撃墜、合計でF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという。硫黄島からの帰還後の1944年(昭和19年)8月、少尉(特務士官たる少尉)に昇進。12月、第三四三海軍航空隊(通称『剣』部隊。以後、343空とする)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に配属。343空が装備する最新鋭戦闘機紫電改の操縦などの指導に当たる。指導に当たった坂井は空戦講話をやったが、激戦を経験した若者には不評だった。いわゆる昔語りに過ぎず、暴力をたびたび振るったことも反感を買った。特に坂井より8つ年下でありながら坂井の撃墜数を超える杉田庄一は、大村空でも坂井と一緒だったが、杉田は坂井が前線から退いた後もずっと勝ちぬいてきた誇りがあった。また杉田は後輩に対して鉄拳制裁を好まず面倒見の良い優しい性格だったことから、自分より若い搭乗員達をことごとくジャク(未熟者)呼ばわりする坂井を嫌い、「坂井は敵がまだ弱かった頃しか知らない、坂井がいなくなった後の方が大変であった」と言って坂井と対立した。343空でも杉田は「零戦は正しく整備、調整されていれば、たとえ手を離して飛んでも、上昇下降を繰り返してやがて水平飛行に戻る。意識を失って背面状態に入り、それが続くなんてことはない。だいたい、意識がないのにどうして詳しい状況が話せるんだ」と坂井のガダルカナル上空で負傷した話を批判し、「あんなインチキなこと言うやつ(坂井)はぶん殴ってやる」と公言していた。飛行長の志賀淑雄少佐は一触即発の状態に苦慮し、空戦に使える杉田を残し、坂井の経験を活かすため飛行実験を任務としている横空へ武藤金義との交換の形で異動させる事にした。これに対し横空は反発し、特に塚本祐造は「片目が見えない坂井と武藤の交換は割にあわない、横空は飛行実験だけが任務ではない」として猛反発した。結局、野口毅次郎少尉を付けての2対1の交換でまとまった。1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。松田千秋司令は、准士官以上を講堂に集合させ、「残念ではあるが日本は降伏することになった。しかし、厚木、その他の航空隊では、徹底抗戦を叫んで降伏をがえんじないようであるが、うち(横空)はこれには加わらぬ。諸君も無念ではあろうが、軽挙妄動してはならぬ」と戒めた。8月17日、アメリカ軍をはじめとする連合国軍による占領下の沖縄の基地から日本本土偵察のため上空写真の撮影に飛来していたB-32ドミネーター2機を多数の日本海軍機が襲撃して房総半島から伊豆諸島の上空で交戦した第二次世界大戦最後の空中戦があった。坂井もまたこの時に出撃しており、零戦で交戦したともされる。空戦の結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた。この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者となった。この空戦に参加した小町定は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をして、離陸した坂井が攻撃には参加できなかったことを示唆している一方で、大原亮治上等飛行兵曹は零戦52型で同日にB-32を迎撃し、三撃目までを加えたことを証言している。小町と大原の証言を本にまとめた神立尚紀は、この日飛来したB-32は複数機だったらしく、小町と大原が迎撃したのはそれぞれ別の機体であろうと解釈している。9月5日、ポツダム進級により海軍中尉となった。戦後は、笹井醇一の親戚で大西瀧治郎の妻である大西淑恵に社長を依頼して印刷会社を経営した。一方、AP通信社東京支局長のラッセル・ブラインズが日本の撃墜王に会いたいと復員省に依頼し、中島正中佐の推薦により東京在住で連絡が取れるということで、きわだって目立つ存在ではなかった坂井が紹介された。その縁で福林正之にも紹介され、坂井の著書が出版されることになった。その後もさまざまな著書を出版し、『SAMURAI!!』が海外で売れたことや一人娘がアメリカ軍人と結婚したことにより、渡米する機会も得るようになった。しかし、元部下の内村健一が始めたねずみ講組織である天下一家の会に参加し、ほとんどの元下士官搭乗員たちを勧誘して被害を出すなど広告塔的存在となっていた。訴訟が相次いだが、規制する法律は間に合わず、ねずみ講は社会問題化していた。当時は頻繁に宗教法人が映画によって広報活動を行っており、1976年(昭和51年)には坂井の『大空のサムライ』が天下一家の会の宗教法人「大観宮」(大観プロダクション)から資金提供を受けて制作された。零戦にねずみ講のイメージが付くことを嫌悪した元零戦搭乗員たちが「零戦搭乗員の会」を一度解散して、新たに「零戦搭乗員の会」を設立する事態まで起こった。このことで坂井はますます居場所をなくしてしまった。東大教授の加藤寛一郎が航空自衛隊を取材した際には、遠回しに「坂井三郎には近づきすぎない方がいい」という注意を受けたという。航空自衛隊の士官あるいは幹部(空自のパイロットは全て幹部)は組織戦を好み、戦いを組織の戦いと考えているので、彼らから「自己宣伝をしすぎる」「宣伝が上手すぎる」「単なる職人」「自分のためだけに戦っていた」と見られる坂井は好印象を持たれていない。坂井より腕のいい戦闘機乗りはたくさんいたが坂井だけが有名になっていたと考えている人もいた。なお、「坂井は単なる職人」という批判に坂井は、「それこそが我々の誇りである。それによってのみ、我々は存在意義を示せるのだ」と語っている。1983年(昭和58年)、アラバマ州空軍の航空200年祭に招待された坂井は、原爆投下の指揮・立案をしたポール・ティベッツが軍人として命令(原爆投下作戦)を遂行したことを賞讃し、坂井も原爆投下を命令されれば実行したと発言して、二人は握手した。この発言に被爆者たちからは非難の声が上がった。もっとも坂井は、原爆投下の道義的責任はハリー・S・トルーマン大統領にあると話してティベッツの個人的責任を追及しなかっただけで、原爆投下それ自体を問題無しとした訳ではない。1987年(昭和62年)7月、ワシントン州シャトル市で、エクスペリメンタル機(手作りのプラスティック飛行機)でスタントを体験する機会を得た。老いたパイロットが今も飛行機を見事に操縦した事で賞賛を受けるも、坂井は戦争以来のGに胃袋が腹の底に伸びきったような感じがしたと語っている。1995年(平成7年)頃には坂井への関心は薄れており、当時坂井の漫画の連載を開始した「ミスターマガジン」編集部によれば、読者は坂井三郎の名前すら全く知らなかったという。また、アメリカでも本が売れたはずの坂井が米海軍に招待されることはなく、厚木や横須賀の米海軍でも、他の零戦パイロットと比べて関心は低かった。あるときから坂井も招待されるようになったのだが、始めのうちは、アメリカのパイロットたちはみんな大原亮治に寄ってきて、坂井のことは誰も知らなかったので大原も一生懸命先輩の坂井を立てようとしていた。しかし、坂井は週刊プレイボーイの人生相談の連載などを開始し、プレイボーイ編集長などの出版関係者は坂井三郎を宣伝する「零の会」を結成して活動を開始した。それから徐々に坂井の知名度が回復した。マイクロソフトで発売された『Microsoft Combat Flight Simulator 2』(フライトシミュレータ)では、パイロット経験者や技術者などからの取材が参考にされており、坂井も取材に協力している。完成の暁には、同じく取材に協力した元アメリカ軍パイロットとのゲームでの空中戦も予定されていた。2000年(平成12年)9月22日、米軍厚木基地の司令官交代式に招待されたときに倒れた。帰途につく際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。坂井の葬儀のそばで元零戦搭乗員が30名ほど集まる会合もあったのに、坂井の生前の行いもあり、元零戦搭乗員で参列したのは4人だけだった。


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著書『大空のサムライ』で一躍時の人となり、戦後の零戦ブームの火付け役ともなった坂井三郎。操縦練習生時代は首席の上に恩賜の銀時計を拝領。日中戦争から太平洋戦争初期にかけて航空戦の最前で活躍し、負傷しながらも1機を確実に撃墜するほどの実力を持つ凄腕パイロットであった。反面、戦後はねずみ講に参加して仲間の搭乗員を勧誘、そこで得た資金で自著を映画化。また、自身の戦争体験を大言壮語する癖が見受けられるなど、元搭乗員達などから批判されることが多かった。それだけに、評価が真っ二つに分かれている坂井三郎。彼の墓は、神奈川県相模原市の相模メモリアルパークにある。墓には「坂井家」と墓誌が一緒に刻まれている。

by oku-taka | 2022-04-17 22:40 | 軍人 | Comments(0)