人気ブログランキング | 話題のタグを見る

水原茂(1909~1982)

水原茂(1909~1982)_f0368298_16070494.jpg

水原 茂(みずはら しげる)

プロ野球選手・監督
1909年(明治42年)〜1982年(昭和57年)

1909年(明治42年)、香川県高松市に生まれる。幼少時に両親が離婚。その後、父親が入り婿になり、再婚した先の「水原」姓になった。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。旧制高松商業学校(現在の香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩の宮武三郎(後の阪急初代主将)とともに甲子園へ出場。投手・三塁手として名を馳せる。甲子園では1925年(大正14年)夏と1927年(昭和2年)夏の2回で全国優勝を達成した。水原と宮武はともに慶應義塾大学に進み、チームメートとして、また、先輩・後輩の関係が続いた。慶應時代は六大学野球のスター選手(三塁手、投手)として人気を博し、春秋通算で5度のリーグ優勝。1931年(昭和6年)からは大リーグ選抜来日時の全日本チームメンバーに選ばれた。しかし、1933年(昭和8年)の秋季リーグ戦の早大対慶大3回戦の9回表、水原が三塁の守備につくと、三塁側早大応援席から水原に向かってごみなどと一緒にリンゴの芯(梨だとする説もある)が投げ込まれた。これは、2回に早大の悳宗弘投手の投球がいったんストライクと宣告されるものの慶大腰本寿監督と打者井川喜代一の抗議でデッドボールに覆り、8回には慶大の岡泰蔵選手の二盗判定を、塁審は最初セーフと判定したが早大高須清遊撃手の抗議でアウトに覆るも、これに対して慶大の三塁ベースコーチだった水原茂が塁審に詰め寄り猛抗議を展開するなど、審判の判定を巡ってトラブルが重なった経過から両校の応援団は興奮状態にあり、それが為に先の水原の抗議での態度に興奮した者が起こした出来事だった。水原がこれを守備の構えのままバックトスのように三塁側に投げ返したことで早大側がさらに激高。試合は9回裏に慶大が2点を返し9-8の逆転サヨナラ試合となったが、試合終了と同時に早大応援団は慶大ベンチ・応援席になだれ込み、慶大応援団の指揮棒が奪われ行方がわからなくなるなどの大乱闘となり、警官隊が出動する騒ぎとなった。その後、両校は「水原謹慎」「早稲田謹慎」と言い合ったが、11月19日早大野球部長が辞任することで決着した。その後、12月3日に麻雀賭博で検挙され、野球部を除名される。1936年(昭和11年)秋、巨人に入団し、前川八郎に代わって三塁手のレギュラーとなる。以降、二番または三番の上位打線を打ち、1937年(昭和12年)秋季リーグでは打率.290、31打点といずれもチーム2位を記録した。1938年(昭和13年)には秋季リーグで投手も務め、スタルヒンに次ぐ8勝(2敗)を挙げ、防御率1.76とリーグ2位に付けた。1939年(昭和14年)からは主将を務め、1940年(昭和15年)はベストナインにもなった。1942年(昭和17年)には応召によってシーズン途中の8月で途中離脱したにもかかわらず、人望があったということで最高殊勲選手に選ばれている。戦争ではアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年(昭和24年)7月20日、舞鶴港に帰国。4日後、東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦(ダブルヘッダー)の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の言と共に帰還をファンに報告する。水原は既に40歳になっていたが、ファンからの水原のプレーを見たいとの声を受けた読売本社からの要請を受けて、現役に復帰。しかし、シベリア抑留中に極度の栄養失調に陥っていたこともあり、衰えは隠せず復帰したシーズンは公式戦には出場しなかった。1949年(昭和24年)、シーズン終了後、巨人選手たちが三原監督に対する排斥騒動を起こし、その流れに押されて12月31日に監督に就任することが発表された。この年チームを戦後初優勝に導いた三原は総監督に異動となる。水原自身は「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任に反対していたというが、1950年(昭和25年)は兼任監督となった。この年は3位に終わるが、1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)までリーグ3連覇と日本一を達成。巨人の「第二期黄金時代」を築いた。選手には与那嶺要、川上哲治、千葉茂、広田順、別所毅彦ら名選手が揃っていたが、1954年(昭和29年)は杉下茂擁する中日ドラゴンズにペナントを奪われて2位となり優勝を逃した。この間、ユニホームに黒とオレンジのチームカラーを導入した(MLBのニューヨーク・ジャイアンツを参考にしたもの)。再び独走でリーグ優勝を達成して臨んだ1955年(昭和30年)の日本シリーズは南海と4度目の対戦になった。巨人は第1戦に勝利したが第2戦から3連敗を喫し、シリーズで初めて王手をかけられる。水原は第5戦にあたって、捕手を広田順から藤尾茂へ、二塁手を千葉茂から内藤博文へ、左翼手を樋笠一夫から加倉井実へと若手選手を抜擢する賭けに出ると、これらの選手が活躍して3連勝。逆転日本一を達成した。翌年もリーグ優勝を達成すると、日本シリーズの対戦相手はライバルの三原脩率いる西鉄ライオンズとの対戦となり、マスコミから(三原の巨人退団の経緯を踏まえて)「巌流島の決戦」と喧伝された。1956年(昭和31年)、品川主計球団社長が新田恭一を水原の頭越しにコーチで招いた。新田は野球を科学的に分析した新田理論で、当時の球界に一目置かれる存在だったが、しかし水原と新田の考えは合わなかった。1957年(昭和32年)はリーグ優勝したものの日本シリーズでは続けて西鉄ライオンズに敗れた。このときの対戦成績は1分4敗で1勝も挙げることなく敗れたため読売内部から水原の手腕を問う声が高まった。2年連続で日本シリーズ敗退を受け、品川球団社長は藤本英雄、谷口五郎の2コーチの解任を決めた。しかし、水原が「藤本をやめさせるなら、自分も身を引く」と反発。正力松太郎オーナーは国家公安委員会委員長を務めており、水原を人事院ビルにあった国家公安委員長室に呼びつけた。正力オーナーは品川球団社長のコーチ解任人事について、水原に新任コーチの人選を認めることを条件に受け入れるよう命じた。水原はこれを聞いて監督の辞任を撤回する。だがこれを聞いた品川球団社長はその場にいたマスコミの前で「ワシに謝れ」となじった。この修羅場は「人事院騒動」あるいは「謝れ事件」と報道された。1958年(昭和33年)の日本シリーズは三原の西鉄ライオンズと3度目の対決となった。第1戦から3連勝して王手をかけるが、明け方まで降り続いた雨のために第4戦は中止。しかし試合開始前に雨は上がっており試合に耐えるグラウンドコンディションだったという。九州各地からバスで観戦に向かうファンたちに配慮しての中止決定とする西鉄側を巨人と水原は執拗に抗議したが認められなかった。その第4戦を落としたものの第5戦は9回表を終わって1点のリード。しかしその裏西鉄の代打小淵泰輔の三塁線への打球を二出川延明塁審がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄がファウルだと抗議。結局判定は覆らずその後関口清治がセンターにタイムリーヒットを放って同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落とした。さらに第6戦開始前に西鉄が先発メンバーの変更を申し出(当時は前日に先発メンバーを発表)、これを巡って両軍はもめ、井上登コミッショナーを挟んで悠然と座る三原と苦虫をかみつぶしたような表情の水原が対峙する写真が残っている。この騒ぎで試合開始が遅れ、調整に混乱させられた先発藤田元司が初回に中西太に決勝打となる先制2ランを浴びこの試合も敗れ、稲尾の4連投で4連勝を挙げた西鉄に史上初の3連敗4連勝を許してしまった。この年のオフ、投手の別所毅彦が契約更改で登板数の保障を求めたことに、「選手の起用は監督の専権事項」と強く批判。この対立はマスコミを賑わせたが最終的に別所が誤りを認めて謝罪し、水原もできるだけ別所の意向に沿うように努めることで決着した。1959年(昭和34年)もリーグ優勝を果たすが、今度は杉浦忠を擁する南海ホークスの前に4連敗を喫した。1960年(昭和35年)には三原が同じセ・リーグの大洋監督に就任し、マスコミから巌流島の決戦再びと喧伝された。三原は6年連続最下位の大洋を巧みな選手起用でチーム力を引き上げ、巨人と優勝争いを繰り広げ、大洋に屈してリーグ優勝を逃し2位となる。結果、水原は5年連続の日本一を逃す結果となり、正力オーナーの水原に対する評価も下落し、「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言を残して11月19日に水原は巨人の監督を辞任した。12月8日、東映フライヤーズのオーナー大川博に「金は出すが、口は出さない」と口説かれて東映監督に就任。東映は当時万年Bクラスに甘んじていたが、水原は就任1年目で南海ホークスとシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げ2位に上げた。水原は着任とともに、ユニフォームを自らデザインして頭文字のFを飛翔する鳥を摸したデザインになっている胸ロゴなどスタイリッシュな物に変更させた。1961年(昭和36年)は、9月初めに勢いが落ちた南海に代わって首位に浮上し、一度は初優勝が目前に見えたが、優勝争いに慣れない面々は守備でエラーを連発するなど、誤算が続出。最終的に息切れし南海の優勝を許したが、83勝52敗5分けの貯金31は球団史上最高、張本が首位打者、土橋が30勝、久保田が25勝、西園寺昭夫はリーグ最多の97得点、毒島章一もリーグ最多の11三塁打と投打が噛み合ってきた。この年のオフには大規模な補強を敢行して、浪商2年生だった尾崎行雄を中退させて獲得、早慶戦で活躍した安藤元博、立教大学の青野修三、芝浦工大の岩下光一らを獲得。翌年には尾崎はエースとして活躍し、青野、岩下は二遊間を組んでレギュラーとなるなど、補強は成功し、張本が打率333(リーグ4位)、31本塁打、99打点(共にリーグ2位)でMVP、久保田が最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームはリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは藤本定義率いる阪神タイガースと対戦。第1戦と第2戦に連敗し、第3戦は引き分けで、第4戦から4連勝して日本一を達成する(第1戦、第2戦で先発だった土橋を第3戦以降は救援に回し2勝を挙げて種茂雅之と共にMVPを獲得[12]、第3戦からデータ研究に長けていた安藤順三から種茂に捕手を変え、種茂は思い切ったリードで投手の力を引き出しながら打っても殊勲打を放った[13]、第7戦では主砲張本勲に守備固めの選手と交代させるなど非情な采配でチームを引き締めた)。以後1967年(昭和42年)まで監督を務めて、その間Aクラスを保った。張本は「私はいつも言うけど80年以上のプロ野球の歴史の中で、名将と言えるのは、三原脩さん、水原さん、鶴岡さん、川上哲治さん、この4人だと思うんですよ。優勝して、その後もっと戦力を上げたいじゃないですか。補強もしたい。そのためにはお金も使いたい。ムダなお金じゃないんだから。ところが球団が聞く耳を持たなかったから水原さんは去っていくわけです。東映に7年いらっしゃて、最後の2年ぐらいは我慢したそうなんですよ」と回顧している。1967年(昭和42年)11月25日、大川博オーナーから監督の解任を通告された。1968年(昭和43年)11月6日、中日ドラゴンズの監督に就任。就任時には中京財界の要人を複数従え、そのことが球団内での立場を強くした。在任中には4位、5位、2位と優勝は果たせなかったものの、星野仙一、島谷金二、谷沢健一といった若手の選手育成に心血を注ぎ、自身をヘッドコーチとして支え後継監督の与那嶺要による巨人のV10を阻む優勝の土台をつくった。また、水原は東映に続いて中日でもユニフォームのデザインを担当。当時MLBでは鮮やかなユニフォームが全盛を迎えており、鮮やかな赤いユニフォームを纏い来日して日本のファンに衝撃を与えたセントルイス・カージナルスにあやかろうと思ったが、自身は巨人、球団も前年に赤いユニフォームで失敗しているためこれに代えて鮮やかなスカイブルーとを導入、赤は差し色として使用した。さらに胸ロゴの「Dragons」は髭をoの下までだったのをロサンゼルス・ドジャースのように頭のDの下まで伸ばしたものに変更ており、この意匠はその後のユニフォームにも継承されることとなる。1971年(昭和46年)10月4日、公式戦終了とともに中日監督を辞任し、監督業からも引退することを表明した。水原の監督最終日の第一試合の相手はライバル・三原率いるヤクルトアトムズだった。この試合に水原中日は勝利し、第二試合の大洋ホエールズ戦終了後、水原はナインから胴上げされた。以降は東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)専属野球解説者として活動。日刊スポーツ野球評論家も務めた。1977年(昭和52年)、野球殿堂入り。1982年(昭和57年)2月、吐血して入院。同年3月26日、肝不全のため東京都新宿区の東京女子医科大学病院で死去。享年73。葬儀は、腸チフスで現役中に急逝し、背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫に次ぐ史上2人目の読売巨人軍の球団葬として行われた。


水原茂(1909~1982)_f0368298_16070499.jpg

水原茂(1909~1982)_f0368298_16070470.jpg

ライバル・三原脩とともに戦後のプロ野球界を盛り上げた水原茂。特に監督としては、新人の長島と王を発掘してON時代の基礎を築き、巨人軍第2期黄金時代をもたらした。また、アメリカ仕込みの大リーグ戦法をいち早く取り入れ、ブロックサイン、ワンポイントリリーフなどを駆使した。まだ成績を残していない若手選手を試合の大事な局面で抜擢するなど、稀代の勝負師としても知られた水原茂の墓は、神奈川県横浜市の総持寺にある。墓には「水原家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「樂雲院禅風巨献居士」。

by oku-taka | 2022-02-15 16:09 | スポーツ | Comments(0)