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真家ひろみ(1946~2000)

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真家ひろみ(まいえ ひろみ)

歌手・タレント
1946年(昭和21年)〜2000年(平成12年)

1946年(昭和21年)、東京都渋谷区西原に生まれる。本名は、真家 弘敏。その後、杉並区上高井戸で育ち、渋谷区立代々木中学校、東京商業高等学校、日本大学芸術学部と進学。一方、ジャニーズのプロデューサーであるジャニー喜多川が教えていた野球チーム「ジャニーズ」の一員としても活動。ある日、雨で野球の練習が出来なかったため、ジャニーは少年たちを引き連れて映画『ウエスト・サイド物語』を鑑賞。彼らは同作に衝撃を受け、ジャニーはエンターテインメント事業への参入を決意する。ジャニーは米国由来の舞台芸術への憧れを持っており、メンバーもダンスのレッスンを熱心に行った。1962年(昭和37年)4月、野球チームのメンバーだった真家、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦の4人でジャニーズが結成される。8月、NHK総合『夢であいましょう』で田辺靖雄のバックを務め、芸能界デビュー。同番組は生放送の舞台ショーであったため、「歌って踊れるアイドル」という稀有な存在が重宝されることとなった。本物の舞台ショーにも積極的に出演し、1963年(昭和38年)1月には、日劇『第19回ウエスタン・カーニバル』に出演し、伊東ゆかりの「ロコモーション」のバックを務める。デビュー当初は名和プロダクション内の「新芸能学院」に在籍していたが、1964年(昭和39年)6月にジャニーがジャニーズ事務所を創業。ジャニーズは同事務所初の所属グループとなる。12月、『若い涙』でレコードデビュー。『夢であいましょう』内のコーナー「今月の歌」に採用される。以降も、永六輔、中村八大のゴールデンコンビによる楽曲を次々と発表。『涙くんさようなら』『太陽のあいつ』などのヒットを飛ばした。1965年(昭和40年)、日本版ウェストサイド物語というべきミュージカル『焔のカーブ』(脚本:石原慎太郎、主演:北大路欣也)に出演。同年、『第16回NHK紅白歌合戦』に初出場。披露したのは音楽劇『三文オペラ』の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」のカバーで、舞台を意識したパフォーマンスであった。1966年(昭和41年)8月28日、本格的なダンスレッスンをするために渡米。その後、ワーナー・ブラザースとの契約が決まり、予定の3ヶ月という滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始。その中から2曲を全世界に向けてシングルリリースした。プロモーションフィルムも制作していたが、何らかの原因により吹き込みが叶わなかった。なお、未発売の楽曲のうち、『Never My Love』はアドリシ・ブラザーズが作った楽曲で、ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後、1967年(昭和42年)にアソシエイションによって演奏及びレコード化され、全米チャート第1位の大ヒットを記録している。同年1月5日に帰国。渡米中に爆発的に流行していたグループサウンズを参考にした楽曲を発表するが、アメリカ留学や色々な経験を経て、メンバーそれぞれやりたいことや方向性に個性が出てきたことから、程なくして解散へと至ることになる。11月20日、渋谷公会堂にて解散コンサートを開催。そして12月31日放送の『プラチナゴールデンショー』(日本テレビ)への出演を最後に解散した。解散と同時にジャニーズ事務所からも退所。 その後は所属事務所を転々としたり、芸名を幾度も改名(真家宏満→まいえ宏満→ 真家宏満→立花正太郎 )しながら、『3時のあなた』のサブ司会、俳優、作詞(日本作詞家協会の会員にもなる)、更には日活ロマンポルノ出演までこなした。 私生活では、元宝塚歌劇団54期生で1歳下の白河かほると結婚。夫婦で個人事務所「真家企画」を設立し、妻のリサイタルプロデュースも手がけた。1982年(昭和57年)、タクシー運転手に転身。 その模様は猪瀬直樹の著書『あさってのジョー』(文庫化の際に『日本凡人伝 ~ 二度目の仕事』に改題)や、フジテレビ『ザ・ノンフィクション』でも取り上げられた。1993年(平成5年)には、『ハイ!どうぞ ~ ジャニーズ・タクシー奮走記』を上梓している。1995年(平成7年)、念願だった個人タクシーの資格を取得。 しかし、2000年3月6日午前0時頃に胸の痛みを訴えて救急搬送。午前2時55分、心筋梗塞のため新宿区の病院で死去。 享年53。


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初代ジャニーズのメンバーだった真家ひろみ。芸能界にジャニーズ帝国が築かれる前、歌って踊れる男性4人組として芸能界にデビューし、ジャニーズグループの第一号となった。中でも真家はトークが上手く、ステージでは進行役を務めることが多かったことから、リーダーポジションとして活躍した。そんな真家だったが、ジャニーズ解散後しばらくをしてタクシー運転手に転身。華やかな元アイドル、しかも作家の池波正太郎からもらった「立花正太郎」の名に改めた後だっただけに、衝撃を受けた人も多かったのではないだろうか。それでも彼は卑屈になることなく、むしろその転身ぶりを堂々とアピールしていて、元来の明るく前向きな性格を感じたものだった。突然の死から22年、真家ひろみの墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。洋型の墓には花が彫られ、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2022-02-15 15:31 | タレント | Comments(0)