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土居まさる(1940~1999)

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土居 まさる(どい まさる)

司会者・タレント
1940年(昭和15年)〜1999年(平成11年)

1940年(昭和15年)、愛知県に生まれる。本名は、平川 巌彦(ひらかわ よしひこ)。後に静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現在の伊豆市)で育つ。静岡県立沼津東高等学校を経て、立教大学経済学部を卒業。1964年(昭和39年)、文化放送入社。新人アナ研修時代から評価は高く、スポーツアナとしての将来を期待され、入社後数年は野球中継実況アナウンサーとして活躍した。しかし、ディスクジョッキー番組に興味を持っていたことから深夜放送のディスクジョッキーに転向。1965年(昭和40年)、『真夜中のリクエストコーナー』を担当。この番組を担当するに際して使い始めた「土居」のマイクネームは、立教大学の後輩だった巨人軍の土井正三から拝借している。日本初の深夜放送ラジオ番組と言われる同番組で、スポーツアナウンサー出身らしい速いトークとリスナーに「キミ」と語りかける口調、「ヤァヤァヤァ」「ビャーっと」などといった特徴的な言葉を発するスタイルで人気を博す。また、リスナーからのリクエスト曲に加えて、コント、クイズ、人生相談等を実践するなどで、若いリスナーたちから圧倒的な人気を集めた。その後、『ハローパーティー』『セイ!ヤング』などでもパーソナリティを担当。さらに、エレックレコードから『カレンダー』でレコードデビューをし、文化放送を中心にオンエアーされた結果ヒット。アナウンサーのレコードデビュー第1号になった。1969年(昭和44年)からは、文化放送と資本的に関係のあるフジテレビの番組(スター千一夜、テレビナイトショー、お昼のゴールデンショー)にも出向という形で司会を担当し、テレビ界にもこの頃から本格的に進出するようになる。1970年(昭和45年)、文化放送を退社。フリーアナウンサーに転向し、文化放送でのレギュラー番組を続ける傍ら、日本テレビ『TVジョッキー』の司会に抜擢され、フリー転向後の本格的なテレビデビューとなった。その軽快な話術が当時の若者層に受け、一躍全国区となる。さらに、フジテレビ系『プロ野球ニュース』週末キャスター、TBS『スーパーダイスQ』などのクイズ番組、そして1979年(昭和54年)から16年間にわたって司会を担当したテレビ朝日『象印クイズ ヒントでピント』などでも名を馳せる。この他、フジテレビ系『オールスター紅白大運動会』と『オールスター紅白バレーボール大会』の総合司会(後者は実況も兼任)も務め、フジテレビ系芸能人対抗スポーツバラエティ番組の顔となる。その後はテレショップの司会などを担当してきたが、1998年(平成10年)からは古巣の文化放送で久しぶりのラジオ番組として出演した『土居まさるのラヂオデイズ』が注目を集めていた。しかし、同年9月下旬に体調を崩し、病院で癌の告知及び「余命半年」の診断を受けた。暫くは入退院を繰り返しながら仕事を続けていたが、12月26日の同ラジオ番組の収録が生涯最後の仕事となった。亡くなる数日前には、自分の死期を悟っていたかの様に親しかった芸能人数人に電話をし感謝の挨拶をしていた。1999年(平成11年)1月18日、膵頭部癌のため渋谷区神宮前の自宅で死去。享年58。


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深夜放送のディスクジョッキーとして絶大な人気を誇った土居まさる。日本初といわれる深夜ラジオ番組『真夜中のリクエストコーナー』で「キミ」「ヤァヤァヤァ」「ビャーっと」などの印象的なフレーズで若いリスナーたちに呼びかけ、それまでの「聴く」ラジオから「参加する」ラジオへと変化させた。その後はテレビに活躍の場を移したが、中でも『象印クイズ ヒントでピント』は、司会の土居が出演者をあだ名で呼ぶなどアットホームな雰囲気を基調にしたおかげで固定ファンを獲得し、放送期間16年にも及ぶ人気番組となった。土居まさるの墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。墓には「巌」とあり、台座部分に「平川」と、友人の小林一博が土居まさるについて綴った東京新聞の「論説室」が刻まれている。右横には墓誌が建ち、辞世の句「木守柿 蔕を残して 失せにけり 」もここに彫られている。

by oku-taka | 2022-01-03 21:14 | タレント | Comments(0)