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青山純(1957~2013)

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青山 純(あおやま じゅん)

ドラマー
1957年(昭和32年)〜2013年(平成25年)

1957年(昭和32年)、東京・世田谷に生まれる。小学校5年生のとき、父にせがんでドラムセットを買ってもらうが、中学ではバスケットボールに夢中となる。高校に進学後、本格的にドラムを始め、「KANN」というバンドを組む。このとき、ドラムスクールで藤井章司と出会い、Char・佐藤準・新川博などとも知り合う。高校卒業後、兄の友人だった杉真理のバンド(杉真理&レッド・ストライプス)のレコーディングに参加し、プロとして活動を開始する。1977年(昭和52年)頃、バンド「MAGICAL CITY」に参加。ここでベーシストの伊藤広規と知り合い、佐藤博のバックバンドとして活動を開始。ハイ・ファイ・セット・杉真理・松任谷由実らのバックバンドを務める。1979年(昭和54年)、THE SQUAREに参加。渡辺建や仙波清彦と出会う。また、プリズムにも参加した。この頃、吉田美奈子の紹介で山下達郎と知り合い、1980年(昭和55年)に発売された山下のアルバム『RIDE ON TIME』に参加。以降、山下達郎バンドの一員として、2003年(平成15年)まで継続して山下のレコーディングやライブ活動などに参加した。1980年代に入るとスタジオミュージシャンとして様々なミュージシャンと共演し、山下久美子『赤道小町ドキッ』(1982年)、近藤真彦『ハイティーン・ブギ』(1982年)、大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』(1984年)などの曲に参加し、ヒットに貢献した。1984年(昭和59年)、仙波清彦率いる「はにわちゃん」「オレカマ軍団」「はにわオールスターズ」などに参加。1987年(昭和62年)、キリング・タイムに加入。1990年(平成2年)、セッションバンドSons & Daughters(後のFUTURE DAYS)を結成。1991年(平成3年) 、小川美潮のアルバム「ウレシイの素」共同プロデュース。2000年(平成12年)、この年よりMISIAのライブを継続的にサポートするようになる。2002年(平成14年)、山下達郎のバックバンドで結成されたネルソンスーパープロジェクト名義でアルバム「Nelson Magic」をリリース。2006年(平成18年)、MAMBABOOに加入。しかし、この頃から体調を崩しがちになり、長時間のライブは困難となってしまう。2010年(平成22年)、東京・世田谷に「青山純ドラムスクール」を開講。2011年(平成23年) には、ドラム教則DVD『青山純 一つ打ちの真髄』を発売するなど、後身の育成に力を注ぎ始める。2012年(平成24年) 12月5日、盟友・伊藤広規とのユニット「A*I」によるセッション音源が2枚組CD『A*I』としてリリースされる。2013年(平成25年) 12月3日、肺血栓塞栓症のため死去。享年56。


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山下達郎をはじめ、日本のトップミュージシャンたちの演奏を支えた、日本のトップドラマーの一人・青山純。安定感抜群のリズムと太いスネアの音は多くのアーティストから支持を得、竹内まりや、中島みゆき、徳永英明、MISIA、B’z、今井美樹など数え切れないほどのレコーディングに参加した。近藤真彦『ギンギラギンにさりげなく』、山下達郎『クリスマス・イブ』、おニャン子クラブ『セーラー服を脱がさないで』など、誰しもが一度は耳にした事のある楽曲の通り、彼の参加した曲はもれなくヒットとなった。これだけの華やかな経歴にもかかわらず、本人はドラムソロをあまり好まない、ドラムも基礎中の基礎である「一つ打ち」にこだわるなど、一流ドラマーとしてはどことなく控え目な印象の人であった。青山純の墓は、神奈川県横浜市の緑山霊園 合掌の杜にある。墓は家族の希望でSONORのドラムヘッドを模したデザインが採用され、ロゴマークも再現されている。下部には墓誌が刻まれている。戒名は「圓硯院音海楽純信士」。なお、同墓にはnano.RIPEの元ドラマーで急性心不全のため29歳で亡くなった次男・青山友樹も納骨されている。

by oku-taka | 2022-01-03 21:04 | 音楽家 | Comments(0)