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田村正和(1943~2021)

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田村 正和(たむら まさかず)

俳優
1943年(昭和18年)〜2021年(令和3年)

1943年(昭和18年)、京都府京都市右京区に生まれる。阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれるが、兄の田村俊磨を含め四兄弟である。生家は、父が建てた阪妻プロダクションの跡地に建つ東映京都撮影所近くであったが、その後に嵯峨野へ移住。田村は幼い頃、なんとなく父のしている仕事をしたいと思っており、それを知った父が大変喜んだと語っている。また、後年「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた。父とは普通の親子の様に手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったと語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語っている。しかし、小学4年生の時に父を亡くし、世田谷へ移住。成城学園中学校に進学後、中高時代にはバスケットボール部に所属していた。1960年(昭和35年)、兄の高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際に勧められて、同映画の端役として出演する。1961年(昭和36年)、成城学園高校在学中に松竹大船と専属契約し、9月に映画『永遠の人』で正式なデビューを果たした。1963年(昭和38年)には『花の生涯』に出演し、ここから5年連続でNHKの大河ドラマに出演した。 1965年(昭和40年)、『この声なき叫び』で初の単独主演。また、阪東妻三郎の13回忌としてNHKで製作された『破れ太鼓』で4兄弟が初共演を果たす。以降、1966年(昭和41年)に大学を卒業するまで学業と並行して映画、テレビドラマに出演した。松竹と専属契約を結んでいた頃、年間10本の映画出演の打診を受けたが、作品を選んで出演を決めたい、台本が出来ないうちに出演を強制されたくないと、そのうち5本を断った。1966年(昭和41年)、自身が主演する映画『空いっぱいの涙』の主題歌を歌い、レコードデビュー。また、松竹が田村を大々的に売り出す戦略から、映画『雨の中の二人』にモッズファッションに身を包み主演。大きな話題となったが、同年には松竹を退社しフリーとなる。1968年(昭和43年)、ホラー時代劇『怪談残酷物語』で時代劇映画初主演を果たす。1970年(昭和45年)には『おんな牢秘図』で一般的な時代劇での初主演を果たした。また、映画では田村の個性を活かす様な作品に恵まれずにいたが、この年に出演したテレビドラマ『冬の旅』で改めて存在を認識され、人気に火が付いた。以降、繊細な二枚目役を中心にテレビドラマでの活躍が目立つようになる。1972年(昭和47年)には『眠狂四郎』の作者・柴田錬三郎の意向により、テレビ時代劇『眠狂四郎』の主役に抜擢。田村はこの作品に臨むにあたり、「田村正和の代名詞になる程の作品がこれまでに無い気がするので、代表作にしたい」と、撮影のしばらく前から東京の自宅を引き払い、京都に拠点を移す程意気込んでいたという。この作品で、田村はお茶の間の人気を得た。1977年(昭和52年)、NHK時代劇『鳴門秘帖』では新たな人気を獲得してファン層を広げ、代表作の一つとなった。陰影の濃い哀愁ムードの風貌は女性ファンを引き付け、「憂愁の貴公子」と呼ばれることもあった。1978年(昭和53年)、テレビ時代劇『若さま侍捕物帳』に出演。これまでと違う役どころに悩んだが、以降は軽やかで明るい役柄にも挑戦し、これまでのイメージとは異なる作品にも出演するようになった。同年、舞台『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』で、父の代表作である『雄呂血』に出演し、久利富平三郎を演じた。1983年(昭和58年)、主要キャストに田村三兄弟を揃えたスペシャル時代劇版『乾いて候』に出演。これが好評であったため、1984年(昭和59年)に連続版『乾いて候』が製作された。同年、『うちの子にかぎって…』に出演。優柔不断で生徒に振り回されるちょっと頼りない小学校の先生役が見事にはまって大ヒット。それまでのイメージを完全に覆す三枚目の役は、田村にとってターニングポイントとなった。続けて、『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』『パパは年中苦労する』など数々のコメディドラマに父親役で主演。以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し、成功をおさめた。1988年(昭和63年)、『ニューヨーク恋物語』に出演。田村が最も気に入る作品となり、同じ役を長く演じるのを嫌う田村としては珍しく、田村の願いで2005年(平成17年)にはスペシャル版が製作された。恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ続けた一方、1991年(平成3年)の『パパとなっちゃん』で演じた愛する娘に振り回される父親役など、幅広い役柄で主演。特に日曜劇場で連続ドラマになってからは、1993年(平成5年)放送の『カミさんの悪口』に出演して以降、歴代最多の8作品で主演を務めるなど、テレビドラマ界での主演スターとして地位を築いた。1993年(平成5年)、映画『子連れ狼 その小さき手に』に小池一夫からの指名を受けて出演。14年ぶりにスクリーン復帰を果たし、アクションよりも、親子愛にテーマを置いた拝一刃を演じた。1994年(平成6年)、刑事ドラマ『古畑任三郎』に出演。「和製刑事コロンボ」と言われる新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった。古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、辞退した。その後、『古畑任三郎』第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞した。2005年(平成17年)、新橋演舞場で『新・乾いて候 そなたもおなじ野の花か』に出演したが、自身が十分満足のいく出来栄えのものを観客に見せられなくなったとして、以降は舞台に出演することはなかった。2006年(平成18年)、『古畑任三郎』ファイナルシリーズに出演。2007年(平成19年)、映画の撮影に時間が掛かること、完成後には舞台挨拶に赴かなくてはならないことを嫌い、映画への出演を極力避けていたが、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け、映画『ラストラブ』に出演。14年ぶりの映画出演となった。2009年(平成21年)、『そうか、もう君はいないのか』で第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞を受賞。2010年(平成22年)頃から仕事を大幅にセーブする様になり、年に数回あるいは1度程度に減少。そのほとんどが単発作品となっていた。連続テレビドラマの出演としては、2011年(平成23年)に放送された『告発〜国選弁護人』が最後となった。2018年(平成30年)、父親が作った阪妻プロの跡地に建つ東映京都撮影所で撮影された『眠狂四郎 The Final』に出演。円月殺法のシーンだけで3日をかけて撮影され、「『眠狂四郎』は大事な作品です」とも語ったが、放送前に試写を見た田村は、これではダメだと痛感しオンエアを見る気にもならなかったと4月発売の写真週刊誌『FRIDAY』の取材に語っている。これが俳優業からの引退を示唆するかの様なコメントだったことから、一部のマスコミで引退宣言などと報道された。一方田村とは旧知の仲である八木康夫が、伴一彦らとの対談で田村について「確かにやり切ったとは感じている様だが、報道の内容は正確なものではなく、田村自身は一言も引退とは言っていない、また今後絶対に何かに出演しないと言っている訳でも無い。今の田村と何か新しい作品をやりたい。」と話していたが、当作品が生前最後の出演となった。2021年(令和3年)2月、風邪をこじらせて検査入院。その後、周囲にはリハビリを行っているとが伝えられていたが、4月3日16時20分、心不全のため東京都港区の病院で死去。享年77。その死は関係者にも伏せられ、5月18日に訃報が報じられたが、マネージャーですらその1週間前まで田村の死を知らされていなかった。


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往年の映画スター・阪東妻三郎の息子として生まれ、「田村三兄弟」の中で最も端正な顔立ちであった田村正和。自らを「テレビドラマ俳優」と語ったように、テレビドラマ黄金期において時代劇、ラブストーリー、コメディとジャンル問わず幅広く活躍。ニヒルな二枚目として見せた存在感ある演技は、多くのタレントにモノマネされるほど大きな印象を残した。後年は体調不良に悩まされ、その影響なのか激痩せと声が出し辛くなってしまい、演技を見ていても心配が先立つようになってしまった。晩年、週刊誌の取材に「静かに死にたい」「あとは静かにフェードアウトするだけだね」と語っていた田村正和。自らが持つポリシーと美学を貫いた永遠の二枚目の墓は、神奈川県横浜市の八景苑にある。生前、墓相学に基づいて造られたという五輪塔の墓には「田村家先祖各霊菩提」とあり、納骨されている墓には「深達院和光日正大居士」の戒名と、右側面に墓誌が刻まれている。

by oku-taka | 2021-12-11 22:48 | 俳優・女優 | Comments(0)