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松井翠声(1900~1973)

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松井 翠声(まつい すいせい)

弁士・漫談家
1900年(明治33年)〜1973年(昭和48年)

1900年(明治33年)、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)に生まれる。本名は、五百井 清栄(いおい せいえい)。祖母が江戸時代の豪商・淀屋辰五郎の家から出たくらいの裕福な商家に育ったが、父が道楽者だったため家運が傾き、小学校の途中から奉公に出される。その後、写真屋の小僧、お寺の小僧、別荘の留守番、新聞配達などをして、錦城中学校の夜間部に入学。1918年(大正7年)、昼間の勉強に変わりたいと、夜だけの仕事を探した結果、映画説明者になることを決意。当時牛込館にいた松浦翠波に弟子入りし、見習い弁士となって「松井翠声」を名乗る。1921年(大正10年)、錦城中学校を卒業。早稲田大学英文科に進学するが、弁士も続けた。大学卒業後は英語に堪能だったことを活かし、洋画専門の弁士として一本立ち。1926年(大正15年)10月、徳川夢声ら弁士の余興大会「ナヤマシ会」に参加。 1927年(昭和2年)頃には外国映画専門の芝園館の専属となり、軽妙な語り口でファンの人気を集める。1930年(昭和5年)、単身渡米。しかし、勝手が判らず、上山草人の世話になった。 やがてハリウッドへ行き、パラマウントのオールスター・レヴュー映画『パラマウント・オン・パレイド』に通訳の役で出演。以来、時々に渡米してはリチャード・アーレン主演のパラマウント映画『荒波越えて』などに俳優として出演し、その傍ら司会業を日本に持ち込んだり、漫談、司会、文筆と多方面に活躍した。1932年(昭和7年)にはウエスタン・トーキーを日本に紹介。この方式で製作したオリエンタル映画社の『浪子』に夢声らと特別出演したり、1938年(昭和13年)には東宝の記録映画『上海』の解説を担当した。読売新聞社の社会部記者をつとめたこともあるが、戦時中は軍属としてジャワで宣撫工作に従事。戦後の1949年(昭和24年)、NHKの専属となり、ラジオのバラエティショー『陽気な喫茶店』に内海突破、荒井恵子らとレギュラー出演。小柄な身体と機知に富んだ早口の台詞、軽妙洒脱なジョークで戦後の暗い社会に笑いをふりまいた。また、南順介の筆名で台本も執筆した。1954年(昭和29年)11月、『陽気な喫茶店』が終了。1955年(昭和30年)3月にはNHKとの契約が切れ、民放テレビに進出。KRの『タレントスカウト』(1955年)、日本テレビの『クライマックス』(1959年)などの司会を担当した。1973年(昭和48年)8月1日14時30分、肝臓癌のため神奈川県鎌倉市の清川病院で死去。享年73。


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NHKのラジオバラエティ『陽気な喫茶店』で知られる松井翠声。戦後間もない頃、日曜のゴ-ルデンタイムにおいて、その軽妙な司会と早口のジョ-クでお茶の間を笑いに包んだ。戦前は洋画の弁士として人気を博し、ハリウッドからウエスタン・トーキーを日本に紹介するなど映画界にも大きな貢献をもたらしたが、残念ながら今や忘れられたスターとなってしまった。松井翠声の墓は、神奈川県鎌倉市の寿福寺にある。墓には「五百井家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「通天院翠声無極居士」。

by oku-taka | 2021-12-11 22:43 | タレント | Comments(0)