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四代目・坂田藤十郎(1931~2020)

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四代目・坂田 藤十郎(さかた とうじゅうろう)

歌舞伎俳優
1931年(昭和6年)〜2020年(令和2年)

1931年(昭和6年)、二代目中村鴈治郎の長男として京都府京都市に生まれる。本名は、林 宏太郎。1941年(昭和16年)10月、道頓堀角座『山姥』の金時で二代目中村扇雀を襲名し、初舞台を踏む。1949年(昭和24年)、評論家の武智鉄二が文楽座で始めた関西実験劇場(武智歌舞伎)に参加。厳しい修業を積んで、四代目坂東鶴之助(後の五代目中村富十郎)と組み,雀鶴コンビとして人気を得る。1953年(昭和28年)、250年ぶりに復活上演された『曾根崎心中』のお初役が絶賛され、扇雀ブームを起こす。同年、毎日演劇賞を受賞。この頃の人気は凄まじく、特に関西では知らない人のいないほどだった。中には本人許諾のもとで社号及び商標を扇雀にあやかったものに改名する会社まで現れ、扇雀飴本舗はその会社の一つである。しかし、上方歌舞伎の凋落は著しく、1955年(昭和30年)2月に松竹を離脱し、阪急電鉄と東宝の子会社・宝塚映画製作所の専属俳優となる。1957年(昭和32年)1月には東宝専属俳優となり、この時に当時宝塚スターの扇千景と出会う。1958年(昭和33年)10月、扇千景と結婚。後に、扇との結婚はできちゃった結婚であったことを、日本経済新聞に連載したコラム『私の履歴書』で告白している。扇との新婚旅行の車中では、酔った勢いで、自身の女性遍歴を悪びれることなく全て打ち明け、その相手への対応方法などを、堂々と新妻に語ったと言われている。また、扇と結婚する前は、京都に相思相愛の芸妓がいたといわれており、自身がつとめる舞台にその芸妓が訪れると、表は成駒屋定紋の祇園守紋、裏はその芸妓が用いていた女紋をあしらった扇子で舞台をつとめた。そうした遍歴から、昭和30年代から、浮気騒動を起こすことがよくあり、週刊誌上をたびたび賑わせていた。1963年(昭和38年)3月、松竹に復帰し、歌舞伎役者としての活動を再開。女方(女形)として活躍していたが、1975年(昭和50年)頃から初代坂田藤十郎が元禄時代に確立した、上方歌舞伎の特徴といえるやわらかで優美な演技を意味する「和事」にこだわり、祖父である初世中村鴈治郎以来の立役として芸域を広げ、上方和事芸を継承。高貴な身分ながらも、道ならぬ恋などに身をやつしている男を、品のある色気とともに演じた。1980年(昭和50年)、芸術選奨文部大臣賞を受賞。1981年(昭和56年)、上方の代表的な作家である近松門左衛門の作品全作上演と、当時衰退していた上方歌舞伎の復活に尽力すべく、研究劇団「近松座」を結成。1986年(昭和61年)、日本芸術院賞を受賞。1990年(平成2年)、紫綬褒章を受章。11月には、歌舞伎座『廓文章』「吉田屋」の伊左衛門、『心中天網島』「河庄」の治兵衛、『春興鏡獅子』のお小姓弥生/獅子の精で三代目中村鴈治郎を襲名した。1994年(平成6年)、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。また、日本芸術院会員に選出された。1996年(平成8年)、読売演劇大賞最優秀男優賞を受賞。2002年(平成14年)、京都のある舞妓とホテルで密会、バスローブをはだけて自身の陰部を露出させたことが、6月7日発売の写真週刊誌FRIDAYにスクープされた。もともと若い頃から祇園界隈では遊び人として有名で、扇も夫の女遊びに対して最後に自分のところに戻ってくるなら「男の甲斐性」として許す考えであった。それを知らないマスコミは、写真のバスローブ姿から「中村ガウン治郎」と揶揄し「驚いた。人間国宝でも所詮芸人か。ほんとうに驚いた」と非難したが、本人は記者会見で「お恥ずかしいなぁ。私が元気だってことを証明してくださって」と話し、相手女性については「私を支援してくれるグループのリーダー。部屋では僕のビデオを見て焼き鳥を食べただけ」と説明。記者たちに対して「世の男性も頑張って欲しい」と語った。当時は国土交通大臣を務めていた扇は「彼は芸人ですから」と前置きした後で、「女性にモテない夫なんてつまらない」とマスコミを一蹴した。2003年(平成15年)、文化功労者に選出。2005年(平成17年)11月、京都南座顔見世『本朝廿四孝』「十種香」「奥庭」の八重垣姫、『曽根崎心中』のお初、『由縁の月』の伊左衛門で上方歌舞伎の大名跡・坂田藤十郎を四代目として襲名。231年間継ぎ手がいなかった大名跡を蘇らせた。2009年(平成21年)11月、文化勲章を受章。2011年(平成23年)10月、七代目中村芝翫の死去を受け、日本俳優協会会長代行となり、翌年4月には日本俳優協会会長に就任した。同年、伝統歌舞伎保存会会長にも就任。2015年(平成27年)6月25日、博多座公演『曽根崎心中』において、お初役での出演が通算1400回を達成する。2019年(令和元年)12月、京都南座『祇園祭礼信仰記 金閣寺』に慶寿院尼役で出演。これが生涯最後の舞台となった。12月、顔見世興行で転倒し頸椎を圧迫骨折。2020年(令和2年)1月に入院したが、3月半ばにはパーキンソン病が判明し、病院を移って療養。このとき、認知症のような症状も出始めていた。7月には肺炎の兆候による誤嚥を危惧し、口から食事を取ることを控えるようになるが、それでも体調は元気で、11月11日には「前(髪)が伸びた。お年寄りみたいだ」と理髪師を呼び、眉に至るまできれいに散髪した。しかし、翌12日に容体が急変。徐々に呼吸が弱まり、午前10時42分、老衰のため東京都内の病院で死去。享年88。没後、従三位に叙された。


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『曾根崎心中』のお初を当たり役とし、名前が社号や商標に登録されるほど、空前な「扇雀ブーム」を巻き起こした坂田藤十郎。晩年は上方歌舞伎の第一人者として、江戸の昔に途絶えた大名跡を現代に蘇らせた。その一方で、若い頃から浮名の絶えない人であり、ある意味では「女遊びは芸の肥やし」を体現した代表格の役者でもあった。京都に相思相愛の芸妓がいながら、宝塚のスターであった扇千景と「できちゃった結婚」。その後も芸妓や舞妓との浮気を繰り返し、果てはバスローブをはだけて自身の陰部を露出させたところをスクープされ、「中村ガウン治郎」と揶揄されてしまった。「一生青春」を生涯の言葉とし、歌舞伎と恋に生きた坂田藤十郎の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。3基あるうち、鴈治郎が納骨されている墓には「坂田藤十郎 扇千景」とあり、背面に墓誌、右側面に坂田藤十郎の賞歴、左側面に扇千景の賞歴が刻む。戒名は「妙藝院殿藤久日宏大居士」。

by oku-taka | 2021-12-04 16:54 | 俳優・女優 | Comments(0)