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梅宮辰夫(1938~2019)

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梅宮 辰夫(うめみや たつお)

俳優
1938年(昭和13年)〜2019年(令和元年)

1938年(昭和13年)、当時の満州国・ハルビンに生まれる。本名は、梅宮 辰雄(うめみや たつお)。父は満州医科大学を卒業して医師となった後、満州国ハルビン特別市で満鉄病院に勤務していた。一家はその後、父の異動により開原市(現在の中華人民共和国遼寧省)に移住。同地で太平洋戦争終戦を迎え、1946年(昭和21年)に他の引揚者らとともに信濃丸で博多港に帰国した。満洲から帰国した半年後、茨城県水戸市の病院に職を見つけた父とともに一家で移住。小学校・中学校は1クラスだったが、小学4年から中学3年までの6年間はずっと番長で、生徒会長にもなり、女生徒からも人気があったという。茨城大学教育学部附属愛宕中学校では陸上競技をしていた。その後、親戚のいた品川区戸越銀座へ移住。早稲田高等学校に入学し、喧嘩三昧の日々を送る一方、剣道部を創設した。実家は内科・小児科を診療科目とする梅宮医院を開業し、辰夫は跡継ぎとして期待されていたが、医学部を受験するも不合格。浪人するのが嫌で、日本大学法学部に入学した。大学在学中は、日東紡でモデルのアルバイトなどもしていたが、銀座三丁目の寿司屋「江戸常」のゲイから東映ニューフェイス試験を薦められ、1958年(昭和33年)に東映ニューフェイス5期生に合格。翌年、映画『少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズで主演デビューを果たす。新人時代は『遊星王子』などの子供向けヒーロー映画に主演した。1960年(昭和35年)、東映が全力で売り出していた波多伸二が、オートバイ練習中の事故で急死。若手の主演級スターがいなくなり、プロデューサー・監督ら幹部クラスで波多に代わるスターの選考が行われた。大半は亀石征一郎を推したが、岡田茂プロデューサー(後の東映社長)は「亀石?あいつは暗くてダメだ!梅宮がいい。あいつは仰げばどんどん上がる。ああいう奴が人気が出るんだ」と鶴の一声を発し、梅宮が東映東京撮影所(以下、東映東京)の次世代スターとして売り出されることになった。5月、梅宮の初主演作『殺られてたまるか』が公開され、これがヒット。同作でデビューした三田佳子とゴールデンコンビを組み、10数本のコンビ作が量産される。しかし、お互いが異性としては嫌いなタイプで、三田が東映上層部に共演拒否を申し出てコンビ解消。以後、1964年(昭和39年)の『暗黒街大通り』までアクション映画や仁侠映画で硬派な役柄で活躍していたが、段々私生活が派手になっていく梅宮を見て、岡田プロデューサーが梅宮の私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄をあて、1965年(昭和40年)『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」がスタート。岡田は梅宮を着流し任俠路線の裏番組のエースとして起用し続け、ここから"男を泣かせる鶴田 女を泣かせる梅宮"のキャッチコピーが生まれた。1968年(昭和43年)、「不良番長シリーズ」がスタート。不良番長役は、自分でも「俺のために用意された役だ、正に俺にしかできない役だ」と大喜びで、俄然やる気も増して、こうなったら東映東京は俺一人で背負って立つという自覚も芽生えた。また、1960年代半ば以降は東映京都撮影所(東映京都)で「任侠映画」が量産されたため、東映東京の看板スターだった鶴田浩二と高倉健が東映京都に行くことが多くなり、必然的に梅宮が東映東京の看板スターとなった。『不良番長シリーズ』は、最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、ますます破壊的なギャグが繰り出され、計16作が公開された。梅宮は「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ」と述べ、自身の代表作としている。このため、女性からのモテ方は今の芸能人の比ではなかったと自ら語っており、東映入社後から10数年間は毎日のように銀座のクラブに通った。銀座はお姉ちゃんをナンパする場所と決めていたから、お姉ちゃんを口説くのに邪魔になるため、俳優仲間とはつるんでいかず、一人で行った。席に座れば、一般客そっちのけでホステスが梅宮に集まり取り合いをしたという。 俳優としても、主演の『夜の歌謡シリーズ』、更に1970年代からは『帝王シリーズ』などを成功させたが、1972年(昭和47年)に自身が経営する事務所「梅宮企画」倒産などによる多額の借金で窮地に立たされる。同年、クラウディア・ヴィクトリアと再婚。その後、アンナが誕生した。1973年(昭和48年)からは『仁義なき戦い』や安藤昇主演の東映実録路線で貫禄十分の独特の存在を醸し出したが、1974年(昭和49年)癌に罹り、睾丸腫瘍の診断を受けた。半年後、癌細胞は肺にまで転移し、末期の肺がんの診断を受け、余命2~3ヵ月の宣告を受ける。しかし、抗癌剤による化学療法の奏効によって治癒。珍しくエリート刑事役を演じた『県警対組織暴力』で復帰を果たした。この病気の後、梅宮は夜遊びを止め、酒を減らし、家族との時間を大事にし、早起きに励むようになった。1975年(昭和50年)、倉本聡に請われて『前略おふくろ様』に出演。渋い板前役を演じ、役柄を広げることに成功。また、料理に目覚める切っ掛けともなった。1977年(昭和52年)、大映テレビ制作の刑事ドラマ『新・夜明けの刑事』に出演。温厚な人柄の刑事課長役を演じたことで新境地を開いた。以後、『明日の刑事』(1978年 - 1979年)、『スクール☆ウォーズ』(1984年 - 1985年)にも出演するなど、大映ドラマの常連俳優としても活躍する一方、『はぐれ刑事純情派』や『特命係長 只野仁』などのテレビドラマに出演し、名脇役ぶりを発揮する。また、20代前半からの美食三昧で肥やした舌を活かし、料理人としても徐々に活路を見出して行く。 実業家・料理家としての才能にも長けており、「梅宮辰夫漬物本舗」「梅辰亭」といったブランドのフランチャイズチェーンや、名古屋で「梅宮辰夫の炭焼き家 炎園」などの事業も展開。平成に入ると、軽妙なトーク、体を張ったコントでバラエティ番組にも進出。夫婦揃っての共演、家庭の様子もたびたび紹介された。晩年は病気がちとなり、2018年(平成30年)9月に前立腺癌、2019年(平成31年)1月に尿管癌の手術を受けるなど、これまで6度のがんの手術を受けた。その後も慢性腎不全で週に数回、人工透析を受けてきたが、2019年(令和元年)12月12日午前3時過ぎ、神奈川・真鶴町の自宅で就寝中、息をしていないことに気づいた妻が119番通報。救急車で近くの病院に運ばれ、懸命な蘇生措置が取られたが、午前7時40分、慢性腎不全のため神奈川県内の病院で死去。享年81。


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映画、テレビドラマ、バラエティー番組など幅広く活躍した梅宮辰夫。俳優としては、『帝王』シリーズからなる女泣かせの遊び人、映画『不良番長』シリーズのコミカルさ、ドラマ『前略おふくろ様』の男臭さと、強面キャラの役柄で不動の地位を築いた。また、美食三昧で肥えた舌を活かし、飲食事業の経営や料理人として活躍。『料理の鉄人』『愛のエプロン』などで料理人顔負けの腕を振るった。その持ち前の豪快さと気さくな人柄でバラエティ番組にも進出。特にダウンタウンの番組においては、ベテラン俳優にもかかわらず無茶苦茶な設定に応じたり、見る者の方が驚く変装をこなしたり、浜田雅功のツッコミに笑顔で受けるなど、体当たりで挑んでいた。晩年は東映時代の盟友が相次いで逝き、そのせいか体調を崩しがちになっていった。中でも、松方弘樹亡き後から急激に衰え、その体調が心配される最中での旅立ちとなった。豪放磊落に生きた梅宮辰夫の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。娘・アンナのデザインによる洋型の墓には「辰」とあり、背面に墓誌、屍櫃部分に愛犬の足跡が刻まれている。戒名は「浄海院和譽辰照居士」。

by oku-taka | 2021-12-04 16:43 | 俳優・女優 | Comments(0)