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田英夫(1923~2009)

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田 英夫(でん ひでお)

ジャーナリスト・政治家
1923年(大正12年)〜2009年(平成21年)

1923年(大正12年)、貴族院勅選議員や台湾総督を務めた男爵田健治郎の次男で、鉄道省国際観光局長や華中鉄道副総裁をつとめた田誠の次男として、東京府東京市に生まれる。東京帝国大学入学直後の1943年(昭和18年)、学徒出陣で海軍に入隊。海軍兵科第4期予備学生を経て、第16震洋特別攻撃隊艇隊長として宮崎県の赤水に配置され、訓練を重ねていたが、出撃命令が下る前に海軍中尉で終戦を迎え復員した。1947年(昭和22年)、東京大学経済学部を卒業。共同通信社に入社し、社会部記者として東京裁判、帝銀事件、三鷹事件などを取材。後に政治部記者となり、1954年(昭和29年)には第1次鳩山内閣の総理担当記者として、毎朝鳩山邸で取材した。偶然の機会から、ソ連のドムニツキ参事官を鳩山一郎首相に引き合わせ、日ソ国交回復の端緒をつくった。また、1956年(昭和31年)の第一次南極観測隊報道担当隊員ともなった。1960年(昭和35年)共同通信社会部長、1962年(昭和37年)に文化部長を経て、同年11月に当時のラテ兼営放送局・TBS(東京放送)に入社した。1962年(昭和37年)10月から放送を開始した『JNNニュースコープ』の初代のメインキャスターとなり、1968年(昭和43年)3月まで務めた。日本独特の文化であるニュースキャスターの先駆けであるとされ、東京オリンピックなどの報道にかかわった。1967年(昭和42年)10月30日『ハノイ―田英夫の証言』が閣議で偏向報道であると問題視された。同番組は西側のテレビメディア初となるベトナム戦争中の北ベトナム取材を田が担当し、「北ベトナムが負けていない」というアメリカの報道が真実ではないとする内容であった。これが、放送法第3条2に違反しているとして、放送8日後の11月7日に、長谷川峻の招きで今道潤三社長、橋本博報道担当常務、島津国臣報道局長らが自民党本部で田中角栄、橋本登美三郎、新谷寅三郎らと懇談。『ハノイ―田英夫の証言』は偏向報道だと咎められ、橋本が「田をハノイにやれば、ああいう結果になるのは、分かっていたのではないか?」と発言すると、今道は「ニュースのあるところなら、どこへでも人を出す」と強く反論し、直後に自民党へ呼ばれた事に不服を唱えた。自民党はTBSへの再免許更新なしをちらつかせる最終段階まで迫ったが、経営首脳部は田の解任圧力に抵抗した。しかし、1968年(昭和43年)3月10日の成田空港建設反対集会取材のさなか、TBSのドキュメンタリー製作スタッフのマイクロバスにプラカードを所持した集会参加者の反対同盟の農婦7人とヘルメットを着けた若い男3人を乗せたTBS成田事件の影響で、田は『JNNニュースコープ』を降板。最後の放送では降板の経緯に触れることなく「それではみなさん、また明日」を「それではみなさん、さようなら」と言い換えるのみでTV界から去った。これを機に翌28日、TBSの報道局組合員は「報道の自由は死んだ」との喪章を着け、TBS闘争と呼ばれる100日近くにわたる労働闘争が開始された。1970年(昭和45年)、TBSを退職。後日、後の首相である自民党衆議院議員・三木武夫が「田英夫君を励ます会」を帝国ホテルで主催し、同じく後の首相であり当時運輸大臣であった中曽根康弘をはじめ宇都宮徳馬など多数の自民党議員も出席した。1971年(昭和46年)6月、日本社会党から第9回参院選の全国区に立候補。192万票を獲得し、トップ当選した。当選間もないころ、通商産業大臣を務めていた田中角栄のもとを陳情で訪れた際に封筒を持たされ、その中身は100万円の裏金だったことを、後にオフレコ扱いで政治評論家の岩見隆夫に告白した。1972年(昭和47年)、あさま山荘事件の直後に連合赤軍について述べ、「赤軍派を非難する声があるが、幕末明治維新を御覧なさい。正義のための殺人もあれば暗殺もある。水戸の天狗党は維新に先駆けて決起し結局幕府のために死刑になったが、全ては歴史が審判する」と擁護する発言を行った。四面楚歌の連合赤軍をかばったのは、若松孝二、竹中労と田英夫ぐらいだった。社会党時代は穏健な社会民主主義者として知られ、向坂逸郎の社会主義協会とは激しく対立した。その後、横路孝弘らとともに「新しい流れの会」を結成し、党改革を目指していたが、1977年(昭和52年)に党改革が不十分であること、中道左派・リベラル派の結集を目指して離党。西欧型の社会民主主義路線を掲げる社会民主連合を結成した。これにより、社会党を除名された。1978年(昭和53年)3月、社会民主連合の結成に参画し、初代代表となった。 1983年(昭和58年)、横路孝弘、八代英太らと共に「MPD・平和と民主運動」の呼びかけ人となり、事実上の中心人物でもあった。その後、リベラル政党の新自由クラブや田川誠一代表の進歩党と統一会派新自由クラブ民主連合や進歩民主連合を結成。新自由クラブ民主連合で比例区の名簿も共同で出した。長年対立してきた東京都知事鈴木俊一を自公民相乗り候補となった磯村尚徳の対抗馬として支持・支援した。一方、韓国のリベラル派であった金大中元大統領候補を長年支え、韓国の朴軍事独裁政権から激しい弾圧を受けていた金大中を懸命に支援していた。1980年(昭和55年)4月、「カンボジア救援センター」の事務局長に就任。8月には民主カンプチアの支配地域に入り、キュー・サムファン首相と会談した。その際、キュー・サムファン首相が語ったことばをそのまま信用し、「(ポル・ポト派による)大虐殺はベトナムの宣伝に過ぎない」と主張し、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)支持を表明した。1989年(平成元年)、在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名。この中には当時から拉致事件容疑者として韓国で逮捕され、日本でも報道されていた北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者(辛光洙)が含まれていた。田の求めで、菅直人(後の第94代内閣総理大臣)・千葉景子(後の第83・84代法務大臣)・江田五月(後の第87代法務大臣)もこの釈放署名要望書に署名した。1994年(平成6年)、國弘正雄、翫正敏、三石久江ら小選挙区制に反対する社会党参院議員と共同で院内会派「護憲リベラルの会」を結成。同年9月22日、新党護憲リベラルを結党した。その間、反小沢一郎色を強めていく。自社さ連立政権についてはいち早く支持を表明。さらには社会党最左派と言われた伊東秀子を北海道知事選挙に自民党推薦で擁立したりもした。これらの行動は彼とさまざまな社会運動を共にしてきた支持者・支援者からは裏切りとも取られ、東京都議会議員下元孝子は代表を務めていた大衆党を離党したり、護憲リベラルは「平和・市民」と憲法みどり農の連帯に分裂したりと数々の対立・分断の原因ともなった。1995年(平成7年)の参院選後、田らの「平和・市民」は解党。田は椎名素夫らと院内会派「参議院フォーラム」を結成する。1997年(平成9年)、社会党の後身である社民党に入党。党外交・防衛部会長を務めた。民主党の成立後は左派色を前面に出して活動した。1999年(平成11年)8月、参院本会議の国旗・国歌法に反対した。2001年(平成13年)7月の第19回参院選を機に健康上の理由から引退を表明していたが、当時の党首であった土井たか子らの説得を受け入れ、また戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回。比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選した。11月3日、勲一等旭日大綬章を受章。2003年(平成15年)4月、田嶋陽子の議員辞職に伴って繰り上げ当選となり、6期目を務めることになった。2003年(平成15年)、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に参加。2004年(平成16年)の年金国会においては、本会議における年金法案の採決阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を務める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし、副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。2005年(平成17年)3月、脳内出血を患い、4月からは療養のために国会に登院していなかったが、8月には郵政国会において政局となった郵政法案の賛成派と反対派が拮抗し、1票の価値が重要視されるようになると4ヶ月ぶりに登院し、反対票を投じた。2006年(平成18年)12月、翌年夏の参院選に出馬しないことを表明し、34年間の議員生活を終えた。晩年は長く患っていた腎臓の治療のため、入院療養していた。2009年(平成21年)11月13日午前8時50分、呼吸不全のため東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年86。


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ニュースキャスターの草分け的存在と言われる田英夫。日本初の本格的キャスターニュースショーとして、27年半の長期に渡って放送されたTBSの報道番組『JNNニュースコープ』の初代メインキャスターとして活躍。ニュースを一方的に伝えるのではなく、その背景や自らの主張を視聴者に語りかける新しい手法で、お茶の間の支持を集めた。番組降板後は議員に転身し、後の真山勇一や杉尾秀哉などのキャスターから議員転身という元祖的存在ともなった。しかし、議員としては、クメール・ルージュ支持を表明したり、北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者が含まれて「韓国人政治犯釈放の要望書」に署名したりと、真相を伝えるはずのキャスター出身としてはあまりにお粗末な、時流に流される側面も多く見受けられた。田英夫の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。洋型の墓には「田家」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2021-11-22 00:08 | 政治家・外交官 | Comments(0)