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山本周五郎(1903~1967)

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山本 周五郎(やまもと しゅうごろう)

作家
1903年(明治36年)〜1967年(昭和42年)

1903年(明治36年)、山梨県北都留郡初狩村(現在の大月市初狩町下初狩)に生まれる。本名は、清水 三十六(しみず さとむ)。本籍地は北巨摩郡大草村(現在の韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている。1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生。甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受けた。周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父、祖母、叔父、叔母を失っている。大水害後、一家は東京府北豊島郡王子町豊島(現在の東京都北区豊島)に転居。1910年(明治43年)、北豊島郡王子町豊島の豊川小学校に入学した。8月10日、荒川が氾濫して住居が浸水する大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現在の神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌年、学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校(現在の横浜市立西前小学校)2年に転学した。4年生の時、国語の宿題に作文が課され、級友とあれこれ楽しく遊んだことを書いて提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、周五郎の作文に登場する当の本人が「この作文は嘘だ。俺は遊んだことなどない」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任が「こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ」と励まされ、作家を志望するようになる。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作ったりした。また、自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした。1916年(大正5年)、横浜市立尋常西前小学校を卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現在の銀座二丁目)にあった質店きねや(山本周五郎商店)に徒弟として住み込む。しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災し、一旦解散となる。その後、豊橋、神戸に転居。神戸では「夜の神戸社」に編集記者として就職する。1924年(大正13年)、再び上京。帝国興信所(現在の帝国データバンク)に入社。文書部に配属される。その後、帝国興信所の子会社である会員雑誌『日本魂』の編集記者となる。1926年(大正15年)、『文藝春秋』4月号の懸賞に投じた『須磨寺附近』が掲載され、文壇での出世作となる。ペンネーム「山本周五郎」の由来として、『須磨寺附近』を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋側が誤って山本周五郎を作者名として発表したという説があるが、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。しかしながら、雇主であった店主の山本周五郎は、自らも洒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。そのため、文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせていることから、ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。また「山本周五郎」以外には、俵屋宗八、俵屋宗七、横西五郎、清水清、清水きよし、土生三、佐野喬吉、仁木繁吉、平田晴人、覆面作家、風々亭一迷、黒林騎士、折箸闌亭、酒井松花亭、参々亭五猿、甲野信三などを用いたことが知られている。文壇デビューしたものの順風満帆とはいかず、原稿の掲載を断られ、山本周五郎商店からも援助を渋られるようになり、日本魂社からも勤務不良により解雇される。失恋もあって精神的にも経済的にも窮した。こうした時期、1928年(昭和3年)夏から翌年秋にかけて、当時は東京湾北岸の漁村だった浦安に暮らした。浦安時代は、同地をモデルにした『青べか物語』に結実するなど作品に大きな影響を与えている。1931年(昭和6年)、文学仲間であった今井達夫に勧められ、東京の馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。それまでは、博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵物や冒険活劇を書いていたが、尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の『キング』に時代小説を書くようになる。当時の『キング』は発行部数140万部と雑誌界の首位にあった。1936年(昭和11年)、講談社から新進作家として扱われ、同社発行の『婦人倶楽部』『少年倶楽部』『講談倶楽部』『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載されるほどの売れっ子となった。また、博文館も周五郎の「大人向け」作品を掲載するようになった。1942年(昭和17年)、『婦人倶楽部』で各藩の女性を扱う「日本婦道記」が企画され、周五郎は3話(「松の花」「梅咲きぬ」「箭竹」、全て創作)を担当し、残りの4話(いずれも実在の人物で、それなりの周知されている人物)は他の作家が担当した。1943年(昭和18年)、第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退。直木賞史上、授賞決定後としては唯一の辞退者となった。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったことなどが挙げられる。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、選考委員だった吉川英治の選評への反発の可能性も指摘されている。以降、「文学は賞のためにあるのではない」の倫理に基づき、受賞を要請された文学賞すべてを一蹴した。1948年(昭和23年)、神奈川県横浜市中区本牧の旅館「間門園」を仕事場とする。以降、『樅ノ木は残った』(1958年)、『赤ひげ診療譚』(1958年)、『青べか物語』(1960年)、『さぶ』(1963年)などの傑作を発表。死の10時間前まで掘り炬燵で執筆を行っていたが、1967年(昭和42年)2月14日、肝炎と心臓衰弱のため横浜市中区の旅館「間門園」別棟の仕事場で死去。享年64。1988年(昭和63年)、功績を記念し、新潮社などにより山本周五郎賞が創設された。


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時代小説と歴史小説を得意とした山本周五郎。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描き、大衆小説の分野で多くの傑作を残した。映画監督の黒澤明は山本作品の愛読者であり、『日日平安』『赤ひげ診療譚』『季節のない街』『雨あがる』『なんの花か薫る』『つゆのひぬま』の6作品を映画化に結びつけた。午前3時起床、就寝は午後8時。朝食前に行水をし、午前10時まで仕事、散歩をして午前11時にざるそばのつゆに生卵を入れた昼食。午後4時まで仕事をし、夜は原稿を書かない。そして、そこから生まれた作品についても「読者から寄せられる好評以外に、いかなる文学賞のありえようはずがない」として、賞に推されるたびにそれを辞退。気骨と信念を貫き通した山本周五郎の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。自然石の墓には「山本周五郎之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「恵光院周嶽大窓居士」。

by oku-taka | 2021-11-21 23:55 | 文学者 | Comments(0)