人気ブログランキング | 話題のタグを見る

堤清二/辻井喬(1927~2013)

堤清二/辻井喬(1927~2013)_f0368298_01473745.jpg

堤 清二(つつみ せいじ)/辻井 喬(つじい たかし)

セゾングループ創業者・作家
1927年(昭和2年)〜2013年(平成25年)

1927年(昭和2年)、西武グループの創業者である堤康次郎と、康次郎の妾(後に本妻)であった青山操の間に東京府で生まれる。青山は当時康次郎と内縁関係にあったが(後に入籍)、康次郎は5人の女性との間に5男2女を持つ。このことは父への反抗につながり、日本共産党入党や文学への傾倒へのきっかけとなっていく。また「父との確執と、父への理解」は、「小説家・辻井喬」を貫くテーマともなっている。国立学園小学校、東京府立第十中学校(現在の東京都立西高等学校)を経て、成城高等学校 (旧制)(現在の成城大学)に進学。寺内大吉に兄事し、後に「近代説話」の同人となる。東京大学経済学部入学直後、同級生だった氏家齊一郎などから勧誘を受け、日本共産党に入党。横瀬郁夫のペンネームで積極的な活動を行っていた。1950年(昭和25年)、内外の混乱により共産党が所感派・国際派へと分裂する中、国際派の東大細胞に属し、党中央から除名される。この頃、自ら父に勘当を願い出ているが、それは康次郎に対する清二の「絶縁宣言」というべきものだった。1951年(昭和26年)、東京大学経済学部を卒業。その後、肺結核の療養を経て、衆議院議長だった父・康次郎の秘書を務める。また、この頃から辻井喬の筆名で詩を書き始める。1954年(昭和29年)、西武百貨店に入社。1955年(昭和30年)から取締役店長として百貨店を任される一方、母体企業の西武鉄道でも取締役を務めた。同年、処女詩集『不確かな朝』を発表。1961年(昭和36年)には刊行の詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞を受賞。1964年(昭和39年)、康次郎が死去。周囲からは清二が継承すると思われていた西武グループ総帥の座は、異母弟の堤義明が継ぐことになる。学生時代の政治活動の経歴が後継者を決める上で不利に働いたという見方もあるが、争いを好まない清二本人の性格からお家騒動には至らなかった。このような変動の下で、処女小説『彷徨の季節の中で』は書き上げられた。康次郎死去後に一旦相続した義明から、改めて流通部門を渡された清二は、当時阪急百貨店会長・清水雅の宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ。その後、スーパーマーケットである西友を急展開し、業績を拡大。1969年(昭和44年)、池袋西武の隣にあった百貨店「東京丸物」を買収したばかりの小佐野賢治から、さらに買収する形で経営を引き受け、府立十中の同級生だった増田通二を使い、パルコにリニューアル。パルコを全国に展開するとともに、西武百貨店を渋谷に進出させる。また、糸井重里による「不思議、大好き。」「おいしい生活。」などのキャッチコピーで西武百貨店を80年代文化の担い手として印象付けた。こうした積極的な出店攻勢と「感性経営」といわれる優れた演出戦略が奏功し、清二の入社当時は二流・三流といわれた西武百貨店を、1980年代後半には当時百貨店売上高首位の三越を抜き、日本一の百貨店になるまで成長させた。さらに、デベロッパーである西洋環境開発を通じ、世界一のホテルチェーンであるインターコンチネンタルホテルズグループを買収。ホテル経営やリゾート開発へも乗り出すなど、セゾングループを形成した。また、ラコステブランドなどを取り扱う大沢商会や、牛丼の吉野家など倒産した企業をセゾングループに組み入れ、見事に再建させた。マスメディアも彼に注目し、財界の若きプリンスともてはやすようになる。その後も「脱大衆文化」と称して、DCブランドの展開や、無印良品、ファミリーマート、雑貨店のロフト、セゾンカード、FM放送のJ-WAVE、オーディオ・ビジュアル (AV) ソフト(CD・DVD等)の小売店チェーンWAVE、大型書店のリブロ、出版社のリブロポートなどの事業も展開した。また、海外有名ブランドの導入を積極的に推進し、エルメス、ラルフ・ローレン、イブ・サンローラン、アルマーニ、ミッソーニなどを日本の百貨店で最初に導入した。さらに、セゾン美術館などメセナの先駆けといわれる活動も始める。一方、政治家にはならなかったが、父が池田勇人と仲が良かったことから、池田や佐藤栄作、田中角栄、大平正芳ら政治家とも交流を続けた。特に白洲次郎から生前「宮澤喜一を総理にするのを手伝え」と言われていたため、宮澤内閣の誕生にも関わった。1980年代に入ると、哲学者のジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』などに触発され、商品にブランド名が付くだけで価格が上昇する現象に疑問を持ち、ブランドを与えないことで価格を抑える方が消費者に喜ばれると考えた結果、プライベートブランドを立ち上げる。小池一子がコピーライティング、編集企画、田中一光がアートディレクターを担当し、田中の発案による英語のノーブランドグッズ (no brand goods) を和訳した「無印良品」をブランド名にすることが決定。西友のほか、西武百貨店、ファミリーマート、阪神百貨店のインショップなどで販売を開始した。発売当初の「わけあって、安い。」というキャッチコピーは小池一子が考案した。1983年(昭和58年)、自伝的小説『いつもと同じ春』で平林たい子文学賞を受賞。1986年(昭和61年)、西武鉄道取締役を辞任し、セゾングループの経営に専念。金融、不動産、観光など積極的に事業の多角化を進めていき、その傍ら1987年(昭和62年)には私財を投じて「セゾン文化財団」を創設。理事長を務め、文化や芸術を積極的に支援し、人材育成に努めた。しかし、1980年代末のバブル経済崩壊によって、堤一族の名前を利用した金融機関からの借り入れに依存して事業の急拡大を進めていたセゾングループの経営は破綻を迎え、1991年(平成3年)に引責する形で同グループ代表を辞任。2000年(平成12年)には西洋環境開発を含むグループの清算のため、保有株の処分益等100億円を出捐し、セゾングループは解体された。一方、1995年(平成7年)に堤清二名義で学位請求論文として中央大学に提出した『消費社会批判』が認められ、博士(経済学)の学位を取得(論文博士)。翌年に岩波書店から書籍化された。1980年代までは、「実業家・堤清二」の活動が主で、「詩人/小説家・辻井喬」は寡作だったが、セゾングループ代表辞任後は精力的に作家活動を展開。1992年(平成4年)、詩集『群青、わが黙示』で高見順賞を受賞。1994年(平成6年)、『虹の岬』で谷崎潤一郎賞を受賞。2000年(平成12年)、小説『風の生涯』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。同年、詩の業績で藤村記念歴程賞も受賞した。辻井喬として、「父との確執と、父への理解」に加え、自身の特異なプロフィールに由来する、大企業の経営者というモデルを通じた「人間の複雑な内面」の描写が特徴の小説を多く執筆し、2004年(平成16年)にはその集大成ともいえる『父の肖像』で野間文芸賞を受賞した。2005年(平成17年)、堤義明が一連の不祥事で逮捕され、西武鉄道グループの再編・再建活動が活発化すると、義明への批判を展開。異母弟の猶二と共に、西武鉄道へ買収提案を行うなど、実業家、西武の創業者一族としての活動も展開した。2006年(平成18年)3月、小説群の旺盛な創作活動により日本芸術院賞恩賜賞を受賞。同年、詩集『鷲がいて』で現代詩花椿賞を受賞。また、氏家が取締役会議長職を務めている日本テレビ放送網の社外取締役に就任した。2007年(平成19年)、読売文学賞詩歌俳句賞を受賞。同年、日本芸術院会員となる。2009年(平成21年)、『自伝詩のためのエスキース』で現代詩人賞を受賞。2012年(平成24年)、文化功労者に選出。晩年は中国でかかったウイルス性の風邪をこじらせて入院。一時は危篤に陥るもそこから回復し、退院後は軽井沢の「セゾン美術館」に足を運べるほどに体力を取り戻した。しかし、2012年(平成24年)に悪性リンパ腫を発症。入退院を繰り返し、2013年(平成25年)11月25日午前2時5分、肝不全のため東京都内の病院で死去。享年86。


堤清二/辻井喬(1927~2013)_f0368298_01473247.jpg

堤清二/辻井喬(1927~2013)_f0368298_01473153.jpg

堤清二/辻井喬(1927~2013)_f0368298_01473331.jpg

堤清二/辻井喬(1927~2013)_f0368298_01473095.jpg

赤字経営が続いていた「西武百貨店」を売り上げ日本一に導いた堤清二。多店舗化を推し進めるべく、西友、ファミリーマート、無印良品、ロフトと、今に残る店舗を次々に設立し、一躍時代の寵児となった。また、「セゾン文化」という概念を生み出し、デパートの中に美術館や劇場を作るなどして芸術を事業に位置づけ、デパートを若者文化の発信拠点としてデザイン。 また、都会的で洗練された「新しい暮らし」のイメージをコマーシャルで打ち出し、糸井重里による「おいしい生活。」などのキャッチコピーは若者の消費を導き出すことに成功した。こうした能力は、もう一人の人間「辻井喬」としての活動にも十二分に活かされ、作家としても一定の評価を得るまでとなった。経営者として、作家として、それぞれの分野で成功をおさめた彼であったが、その裏には、西武グループの創業者で父の堤康次郎への反意、母が愛人であったことに対する複雑な育歴の負い目、腹違いの弟・堤義明との確執などが絶えず存在していた。セゾングループの解体、西武王国の崩壊をその目に焼き付け、86歳でその生涯を終えた堤清二の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。堤康次郎自らが計画して造った鎌倉の公園墓地、そして墓々を見下ろすかのように一番高いところに設けられた康次郎の墓の土手下に清二の墓はある。墓には「堤家」とあり、左側に墓誌、右側に大伴道子という歌人でもあった最愛の母が詠んだ「なき易すくな里しこころをいたはりてやまに来し日よ山に雪ふる」の歌碑が建立されている。

by oku-taka | 2021-11-15 01:51 | 経済・技術者 | Comments(0)