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なかにし礼(1938~2020)

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なかにし 礼(なかにし れい)

作詞家
1938年(昭和13年)〜2020年(令和2年)

1938年(昭和13年)、満州国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれる。本名は、中西 禮三(なかにし れいぞう)。元は北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていた。実兄は立大から学徒出陣として陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。1945年(昭和20年)8月、ソ連が日本に宣戦布告し、満州に侵攻。一家は牡丹江を脱出し、ハルピンで終戦を迎えた。その後の引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇し、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。1946年(昭和21年)10月に引き揚げ船で広島の大竹港に着き、汽車と連絡船で小樽に戻る。戦後は貧困に喘ぎ、そうした暮らしの中で兄は家を抵当に入れ、博打のような鰊漁を行う。大漁に恵まれたもののそれで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、せっかくの鰊を結局は腐らせてしまい、全財産全てを失い、膨大な借金だけが残ってしまった。このため一家は離散することになり、小学校は東京(東京渋谷区立幡代小学校)と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学3年生のときに上京し、東京都品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、一浪して1958年(昭和33年)に立教大学文学部英文科へ入学。まもなく休学と復学を経て退学。中退と再入学と転科を経て、その間、お茶の水のシャンソン喫茶「ジロー」でアルバイトを始め、シャンソン歌手の石井昌子に一目惚れする。石井に宛てたラブレターで詩的センスを見出され、アテネ・フランセでフランス語を学び、シャンソンの訳詩を始める。1960年(昭和35年)9月、CBCラジオ歌謡・九月の歌に『めぐり来る秋の日に』が入選を果たす。1961年(昭和36年)4月、立教大学文学部英文科に再入学。1962年(昭和37年)10月、訳詞した『チャオ・ペラ(さらば恋人よ)』が芦野宏の歌声でレコード化される。1963年(昭和38年)、立教大学文学部英文科からフランス文学科へ転科する。同年、最初の妻と結婚。妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで『太平洋ひとりぼっち』を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い、石原から「シャンソンの訳詞なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、「自信作ができたらもってこい」と告げられる。1964年(昭和39年)、自ら作詞作曲した『涙と雨にぬれて』を石原プロに持ち込み、数ヶ月後に石原プロ所属歌手のデビュー曲として採用された。しかし、ヒットには至らなかった。一方、シャンソンの訳詩が1,000曲となり、6月に「なかにし礼訳詩シャンソンリサイタル~太陽の賛歌~」を開く。1965年(昭和40年)、立教大学文学部フランス文学科を第一期として卒業。『涙と雨にぬれて』の反省から、次の曲には自身の戦争体験を活かしたいという考えに至り、直接的な反戦の表現を織り込まずに作詞を始める。少年時代に満州からの避難民としてたどり着いた葫芦島の小高い丘からの景色(引き揚げ船、青い空と海)を見た時の感動を、バビロン捕囚の捕囚民の気持ちになぞらえて「ハレルヤ」と表現し、表向きは恋の歌に仕上げながらも故郷の満州に対する思慕の念や反戦の思いを込め、『恋のハレルヤ』を完成させる。この歌は、渡辺順子の名で活動しながらも売れず、石原プロモーションに移籍して改名もした黛ジュンの再デビュー曲として1967年(昭和42年)に発売され、なかにしにとって初のヒット曲となった。同年、『帰らざる海辺』(石原裕次郎)、『知りたくないの』(菅原洋一)、『恋のフーガ』(ザ・ピーナッツ)、『霧のかなたに』(黛ジュン)等の一連の作品で日本レコード大賞作詞賞を受賞。1968年(昭和43年)、『天使の誘惑』で第10回日本レコード大賞を受賞。1969年(昭和44年)には作品の総売上が1,000万枚を達成。また、随筆集『ズッコケ勝負――終わりなき愛の遍歴』、詩集「漂泊の歌」を和田誠、長新太、松本はるみ、灘本唯人、井上洋介、辰巳四郎、横尾忠則、宇野亜喜良、野田弘志らのイラストレーターの挿画をそえて出版するなど、作家としても旺盛な活躍を見せた。1970年(昭和45年)、なかにし礼商会を設立。「ザ・ピーナッツ・ショー」の構成と演出を担当し、以降コンサートや舞台演出も行うようになる。同年、文化放送の深夜番組「セイ・ヤング」火曜日のレギュラー・パーソナリティとなる。また、年間レコード売り上げ枚数1,500万枚の記録を達成。『今日でお別れ』(菅原洋一)で日本レコード大賞、『昭和おんなブルース』(青江三奈)で日本レコード大賞作詩賞、そしてこの年のゴールデンアロー賞音楽賞を受賞するなど、賞レースを総なめにする。1971年(昭和46年)、週刊ポストに俳優や歌手などの乱れた関係を暴露する「芸能人相愛図」を掲載するが、後に、週刊ポストの記者から強要されて書かされたものだとして告訴。記者2人が逮捕される事件へ発展する。その後も作詞家としてヒットを連発し、家計も潤ったことから、半身不随になった母の面倒をみていた兄夫婦と同居生活をスタート。ところが、兄は印税を勝手に使いこみ、働いても働いても借金が増えていく生活となる。1973年(昭和48年)、なかにし礼商会を解散。約2億5000万円の借金が残る。 1974年(昭和49年)9月、アド・プロモーションと仮契約を結んでいた風吹ジュンが、レコードがヒットしても月給23万円という状況に不満を持ち、倍の月給を提示してきたガル企画に移籍。そんな折、フジテレビで収録を終えた風吹の前に、アドプロのマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで連れ去り、彼らは風吹をホテルに軟禁。事務所移籍を考え直すよう、アドプロの社長・前田亜土、前田の舅にあたるなかにしの兄、なかにしの3人が風吹に迫った。その後、全員でベンツに乗って高輪プリンスホテルに移動した後、風吹が翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならないと言い、風吹、元マネージャー、なかにしの3人で階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって風吹が保護された。この事件が起こる数時間前、ガル企画の石丸社長は同事務所で働くマネージャーがなかにし礼の事務所にいたときに作った借金の返済するため、暴力団で住吉連合系大日本興業のI事務所を訪問。石丸が60万円の借金を返すと、部屋にいたIの子分たちがドアの前に立ちふさがり、別の子分がハンガーで顔面を殴打し、さらにゴルフのアイアンで頭や首、手などを叩かれ、残りの3人も殴る蹴るの暴行を加えた。やがてなかにしから電話が入り、Iが「いま石丸を監禁してる。お前の友人だろう。この石丸の身柄を引き取らないか」となかにしに言った。Iに言われるがまま石丸も「礼さん、お願いだ、身柄を引き取ってくれないか」と懇願したが、なかにしは「いや、それはだめですね、石丸さん」と言って電話を切った。「オレがもう一度なかにし礼に頼んでやろう」とIがなかにしに電話をかけ、石丸が「お願いだ、なんとかしてくれないか」となかにしに頼んだが、なかにしは「いやだめだね」と言ってまた電話を切った。しばらくするとなかにしから電話があり、なかにしの兄に頼めと言った。そこで石丸はなかにしの兄と電話で話すことになったが、その際、石丸の身柄引き取りの条件として、風吹が石丸に書いた委任状を渡し、風吹との契約を解除し、石丸がなかにしに貸した280万円の借金を帳消しにすること、を突きつけた。恐怖のあまり、この条件を石丸は飲んで釈放。病院に行ってケガを治療してもらった後に事務所へと戻り、弁護士と相談してから警察に通報。事態を重く見た警視庁は、パトカー20台と警官80人を高輪プリンスホテルに動員し、風吹を保護した。9月20日、風吹と石丸らは、なかにし礼、なかにしの兄、アドプロの前田亜土、大日本興業のIらを相手に監禁、強要、強盗傷人などの罪で告訴した。その後も兄は事業を立ち上げては倒産を繰り返し、多額の借金を抱え続けた。時に借金の肩代わりをしたこともあったが、やがてなかにし名義で借金を重ねるようになり、果てはなかにしに生命保険をかける始末で、なかにしはいつか兄に殺されるのではないかと思うほど追い詰められるようになる。1975年(昭和50年)、作詞に行き詰まっていたなかにしに、兄が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったことから『石狩挽歌』が誕生。同曲は北原ミレイが歌い、日本作詩大賞作品賞と東京音楽祭作詩賞を受賞した。1977年(昭和52年)、母が死去。これを機に兄と絶縁を果たす。同年、当時フォーライフの社長だった吉田拓郎が、なかにしにアルバム製作を依頼。なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバムから『時には娼婦のように』がシングル・カットされ、翌年には俳優の黒沢年男(後の黒沢年雄)が歌って大ヒットを記録。日活映画『時には娼婦のように』(小沼勝監督)の原作・脚本・音楽・主演も務めた。1981年(昭和56年)、『愛してごめんなさい』で日本作詩大賞優秀賞を受賞。1982年(昭和57年)、『北酒場』で3度目の日本レコード大賞を受賞。1983年(昭和58年)、『あさくさ物語』で第4回古賀政男記念音楽大賞優秀賞を受賞。1984年(昭和59年)、『東京めぐり愛』(石川さゆり・琴風豪規)、『東京たずね人』(琴風豪規)、『東京かくれんぼ』(石川さゆり)で日本レコード大賞企画賞を受賞。1989年(平成元年)、『風の盆恋歌』(石川さゆり)で第10回古賀政男記念音楽大賞と第22回日本作詩大賞を受賞。1992年(平成4年)、心筋梗塞を発症。心臓が半分ぐらい壊死となる。1994年(平成6年)、社団法人日本音楽著作権協会の理事長に就任。1998年(平成10年)、兄を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、2000年(平成12年)に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。以降、NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め、『赤い月』『世界は俺が回してる』などを執筆する。一方、テレビ朝日系列で放送されているワイドショー『ワイド!スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年(平成24年)3月5日の放送で食道癌であることを報告。治療のため休業することを明らかにした。医師達から抗がん剤、放射線治療、手術という治療法の説明を受けるが、自身の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。闘病の末に癌を克服し、10月に復帰。執筆、コメンテーター等の仕事も再開した。12月、『櫻』(氷川きよし)で第45回日本作詩大賞を受賞。2015年(平成27年)3月、自身のラジオ番組『なかにし礼「明日への風」』で癌の再発を公表し、休養することを明らかにした。9月、『週刊現代』のインタビューで再発した癌が消えたことを語り、公式サイトでも発表。テレビ出演などの活動も再開した。2016年(平成28年)4月、植え込み型除細動器(ICD)と心臓ペースメーカーを体内に植え込む手術を受ける。2020年(令和2年)秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日午前4時24分、心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。享年82。


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数多くのヒット曲を手掛けた昭和を代表する作詞家の1人、なかにし礼。恋する女性の心情を大胆な言葉で表現し、時に官能的に、時にドラマチックに、文学的センスに裏打ちされた詞を世に送り出し続けた。その裏には、何度も命を落としそうになった満州からの壮絶な引き揚げ体験、大金を投資しては失敗を繰り返して借金を生み続ける破滅的な兄の存在、数年にわたる癌との闘病など、波乱に富んだ出来事がいくつもあった。そのためなのか、彼の紡ぐ言葉はどこか鋭利で強烈なトゲがあった。加藤和彦が自殺した際、「安井かずみが亡くなった。そいで教会で『これからはZUZUの霊とイエス様と3人で生きていく』と誓って、我々もそこで涙してね。で、我々の涙も彼の舌の根も乾かないうちに中丸三千繪と結婚するんですよ。これでね、加藤和彦の周りにいる親友たちが、石原プロもそうだし、僕もそうだし、色んな人も相当イメージダウンというのかなあ…しらけたというか。そのぐらい安井かずみというのは我々の仲間の女神だったの。その女神を結婚という形で独占して、亡くなった後それだけの大宣言までして、その後いとも簡単に…というところが引いたなぁ。彼が現在味わってる孤独というのが、悲しいと言った舌の根が乾かないうちに再婚するなんて、彼はイメージを悪くした」と発したコメントは、人間の卑しさ、妬み、嫉みを嫌というほど味わい続けてきた男の感情がそのまま露われていて、実になかにし礼らしいと思った。その反面、「正直それを今ここで言うか?」とも思った。このコメントから11年後、82歳で世を去ったなかにし礼の墓は、神奈川県鎌倉市の瑞泉寺にある。墓域には五輪塔と「南無釈迦牟尼仏」と彫られたニ基の墓が建ち、右側に墓誌が設けられている。戒名は「自分の功績をたたえるような戒名ではなく、座右の銘のような戒名にしたかった」という意向で自ら名付けた「無礼庵遊々白雲居士」。

by oku-taka | 2021-11-07 17:57 | 音楽家 | Comments(0)