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福田恆存(1912~1994)

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福田 恆存(ふくだ つねあり)

評論家・劇作家
1912年(大正元年)〜1994年(平成6年)

1912年(大正元年)、東京市本郷区(現在の東京都文京区東部)に生まれる。神田の下町で職人に囲まれて育ったことから職人気質が身に付き、ここで庶民の良識を重視し、俗流インテリへの批判的態度が形成される。第二東京市立中学校(現在の東京都立上野高等学校)、旧制浦和高等学校を経て、東京帝国大学文学部英吉利文学科に入学。在学中は英文学とともに「生の哲学」に関心を寄せ、人間の非合理的な生命の力を直視し、理性の無謬性を疑った。1936年(昭和11年)の大学卒業後は中学教師、出版社、団体職員などで勤務。1937年(昭和12年)、第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、「横光利一と『作家の秘密』」、戦前や戦後間もない時期に発表された嘉村礒多、芥川龍之介らに関する論考などを発表し、文芸評論をスタートさせる。1947年(昭和22年)、『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。同年、日本近代文学への批判を込めた評論集『作家の態度』『近代の宿命』により注目される。1948年(昭和23年)、『群像』に「道化の文学―太宰治論」を発表。また、『最後の切札』で劇作家としての活躍も始める。1949年(昭和24年)、日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加。1950年(昭和25年)、『キティ颱風』を発表。文学座で初演され,以後文芸部に籍を置いた。 同年、芸術をより根本的に論じた『藝術とは何か』を発表。1952年(昭和27年)、戯曲『竜を撫でた男』で読売文学賞を受賞。この頃から、個別の作家論や文芸批評といった文学への関心は、次第に文化・社会分野全般へと批評対象を広げていく。1954年(昭和29年)、『中央公論』12月号に「平和論の進め方についての疑問」を発表。進歩派全盛のなかでの保守派の論争家として、『世界』と平和問題談話会に代表される進歩的文化人の平和論を批判した。1955年(昭和30年)1月号では「ふたたび平和論者に送る」を発表し、「一九五五年は、恆存ばやり、(平和的)共存ばやりであけた」と評されるほどの反響を呼んだ。しかし、これ以降論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと後に述懐しており、演劇界からも「村八分」にされ、民芸座と俳優座とは交渉が途絶えた。『朝日新聞』論壇時評では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年(昭和44年)までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で、31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなった。1955年(昭和30年)、「『シェイクスピア全集』の訳業」で、第2回岸田演劇賞と第6回芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年、『知性』誌が国語問題の特集を組んだ際、福田は同誌に「国語改良論に再考をうながす」を発表。戦後、当用漢字表と現代仮名遣いが制定され、この二つに反対する小泉信三と、擁護の立場であった金田一京助および桑原武夫のやりとりを蒸し返す形で擁護派の2人を批判し、当用漢字と現代仮名遣いの不合理を指摘した。12月、『知性』はこれを受けて福田の言をテーマとする特集をくみ、金田一の「仮名遣い問題について」、桑原の「私は答えない」を掲載。桑原は福田の態度に不満を述べるにとどめ、論争に踏みこむことはなかったが、金田一は福田に対し反論を加えた。翌年2月、福田は『知性』に「再び国語改良論についての私の意見」を発表し、金田一の反論に答えた。その金田一は5月、『中央公論』に「福田恒存の仮名遣い論を笑う」を発表。その後、太田行蔵が著書『日本語を愛する人に』の中でこの論争に言及して金田一を難じ、高橋義孝が横槍を入れる形で『中央公論』に「国語改良の『根本精神』をわらう」を寄せ、福田に加勢するなど、この論争は「福田・金田一論争」と呼ばれて大いに話題となった。福田は再び『知性』に「金田一老の仮名遣い論を憐れむ」を出し、金田一に答えたが、8月以後、金田一・福田のさらなる寄稿はなく、また「福田恒存の仮名遣い論を笑う」と「金田一老の仮名遣い論を憐れむ」で相互に誹謗の色を強めたまま、未決着のでやりとりは絶えた。この論争の集大成として、歴史的仮名遣のすすめを説いた『私の國語敎室』を発表。同作で1960年(昭和35年)に読売文学賞を受賞した。一方、劇作家としては、文学座の看板女優・杉村春子との意見の相違から、1956年(昭和31年)に文学座を退座。1963年(昭和38年)、かつて福田が手がけた『ハムレット』で主演を務めた芥川比呂志や、仲谷昇、岸田今日子、神山繁ら文学座脱退組29名と財団法人現代演劇協会を設立し、理事長に就任。福田は同協会附属の「劇団雲」結成を新芸術運動とし、「築地小劇場以来の新劇の亡霊を排し、新しい演劇の創造を目指す」をスローガンに掲げ、「これは単なる劇団の分裂ではない。より大きな構想を持った、芸術上の動きである」と語った。この文学座集団脱退劇は、日本の演劇界始まって以来の大事件として多くのマスコミも関心を寄せた。3月、ウィリアム・シェイクスピア作、福田の翻訳・演出による『夏の夜の夢』を旗揚げ公演として、「劇団雲」はスタート。舞台は高い評価を受け、シェイクスピア劇は「雲」のレパートリーの支柱になった。この他、ユージン・オニール、バーナード・ショーなど、当時の日本の演劇界においてはほとんど取り上げられていなかった作家の作品を上演したり、マイケル・ベントール、ジャン・メルキュールら、海外の演出家を招いて演出させるなど、既存の新劇劇団にはなかった新しい試みも積極的に挑戦。また、遠藤周作、安岡章太郎ら著名な小説家に戯曲を依頼し上演するなど、海外戯曲にとらわれず、国内の作家による創作劇にも力を入れていた。1965年(昭和40年)、「雲」の結成前から長期の病気療養中であった芥川が舞台に復帰し、1967年(昭和42年)の『リア王』では、福田演出・芥川主演で久々に名コンビによる舞台が復活した。同年、福田は現代演劇協会内に、「雲」とは別に「劇団欅」を結成。起用する俳優を外部から呼び寄せ、協会内に二つの劇団を抱えることになる。「雲」は芥川を中心として、福田や芥川の演出で翻訳劇から遠藤周作、安部公房らの書き下ろし作などを積極的に上演し、「欅」は、福田作・演出による書き下ろしや翻訳劇の、「雲」がカバーしきれない娯楽的要素の強いレパートリーを中心とし、それぞれの特色を見せて、「雲」と「欅」の二劇団体制をスタートさせた。1969年(昭和44年)、京都産業大学の教授に就任。1973年(昭和48年)、小林秀雄、田中美知太郎らと提唱し、産経新聞の論壇誌「正論」を創刊させる。同年、「欅」の中心メンバーである岡田眞澄、南原宏治が、現代演劇協会のマネージメント体制の弱さを理由に離脱。そのため、福田は二人が抜けた「欅」の体制建て直しのため、芥川の影響力が大きくなった「雲」から手を引いて「欅」に専念し、芥川に「雲」の全権をあずけることになった。以降、福田が「雲」で演出する機会はなくなり、事実上「雲」は芥川の劇団となった。しかし、「雲」の中でも、加藤和夫、稲垣昭三、内田、西本裕行ら福田に近い俳優たちは、この福田色の排除と芥川色の強化に反感を覚え、「欅」が主力俳優の離脱により弱体化していることを幸いと、芥川の「雲」を離れて福田の「欅」に移籍。これで、「雲」=芥川派、「欅」=福田派という色分けが鮮明になり、両劇団間の摩擦も大きくなっていく。1974年(昭和49年)の三百人劇場の開場を目前に控えた頃から、福田と芥川の対立が先鋭化し始め、福田のワンマン体制に反発する声が「雲」からあがり始める。1975年(昭和50年)、現代演劇協会専務理事・向坂隆一郎は、協会所属俳優(雲、欅劇団員)の外部出演をマネージメントする映画放送部門の会社化の提案を行った。三百人劇場建設のために協会の財政状況は逼迫しており、また岡田らがマネージメント体制の弱さを理由に退団したこともあって、俳優座映画放送に倣って俳優たちの映画・テレビ出演の売り込みの強化を図って協会を立て直そうという意図があった。この提案に、向坂に近い芥川は賛成するが、福田は「現代演劇協会創立時の理念に反する」と反対した。この提案に対抗する形で、福田は「雲」と「欅」を解散し、両劇団の俳優をまとめて新たな劇団を立ち上げる統一劇団構想を表明し、現代演劇協会の協会員にこの計画に関するアンケートを実施した。芥川の影響力を落とそうとの思惑が見て取れるこの提案には、「雲」所属の俳優の多くが反対したため、統一劇団構想は福田からいったん取り下げられたが、この対立はそれまでに蓄積された福田と芥川の感情的な対立や方向性の違いもあり、翌年度の公演レパートリーも決定できない状態になるなど、現代演劇協会は混乱し、完全に分裂状態となった。7月31日、舞台『美女と野獣』公演終了直後、芥川、仲谷昇、神山繁、岸田今日子ら「雲」の大半の俳優が現代演劇協会に退会届を提出し、8月1日に「演劇集団 円」結成を表明した。芥川は「円」結成の記者会見で、「福田理事長を頂点とするピラミッド型の組織の中で一種の酸欠状態を生じ、もはや創造的な活動は困難であると判断して新しい集団の結成に踏み切った」と、福田との溝の深さを吐露した。一方の福田は、「雲と欅の対立、福田と芥川の対立といった次元のものではない」と述べ、「雲」及び「欅」は同年末をもって解散。1976年(昭和51年)1月、「雲」の残留派と「欅」を統合し、現代演劇協会附属「劇団昴」を新たに結成。芥川らが去ったことにより、福田の統一劇団構想は実現した。1977年(昭和52年)、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』の司会進行でテレビ出演を果たす。1980年(昭和55年)、ヒトラー日本亡命説を主題とする喜劇『総統いまだ死せず』で、菊池寛賞と日本芸術院賞を受賞。1986年(昭和61年)、勲三等旭日中綬章を受章。1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)10月23日、急激な血圧低下で緊急入院。11月20日午後1時、胆管癌のため東海大学大磯病院で死去。享年82。


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評論家として平和論への批判を早くから行い、劇作家としてはシェイクスピア戯曲作品の翻訳と上演でその存在感を示した福田恆存。文芸評論からスタートした評論家人生は、左翼思想への批判、平和問題、国語国字問題と、保守的立場から様々な論争を巻き起こした。近代日本の進歩的知識人の偽善性を痛烈に批判して多くの敵を作り、その後すぐに金田一京助と桑原武夫を敵に回し、演劇においても、杉村春子、名コンビとも言われた芥川比呂志などとも意見の食い違いで袂を分つことになるなど、その行動力はまさに「喧嘩屋」そのものであった。かつて『言論の空しさ』の中で、「言論は空しい、いや言論だけではない、自分のしてゐる事、文学も芝居も、すべてが空しい。」と述べていたが、晩年はそうした自分に嫌気がさしたのか、活動は一気に減少し、自分の書いた原稿を次々と焼却してしまうほどであった。かつて見せた旺盛な活動とは裏腹に、静かな余生を送った福田恆存の墓は、神奈川県中郡大磯町の妙大寺にある。自ら設計した長方形の細長い墓には「福田家之墓」とあり、墓誌はない。戒名は「實相院恆存日信居士」。

by oku-taka | 2021-10-10 20:57 | 評論家・運動家 | Comments(0)