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井上大輔(1941~2000)

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井上 大輔(いのうえ だいすけ)

ミュージシャン
1941年(昭和16年)〜2000年(平成12年)

1941年(昭和16年)、東京市の有楽町に生まれる。本名は、井上 忠夫(いのうえ ただお)。泰明小学校時代はコーラス部に所属。日本大学附属豊山高校2年からブラスバンドでクラリネットを吹き始める。その後、日本大学芸術学部に進学。映画学科演出コースから音楽学科作曲部門に移り、学生バンドを作ってジャズ喫茶などでモダン・ジャズを演奏していた1963年(昭和38年)、ジャッキー吉川と大橋道二にスカウトされ、「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」に加入。リード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当した。当初は伴奏楽団だったが、バックバンドとして紅白歌合戦へ出演することに飽き足らなくなった井上が、「バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ」とバンドの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(後の作曲家・すぎやまこういち)に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至った。本格的なデビューに先駆けて、マネージャー川村龍夫の助言により「デューク・エイセス」の当時のセカンド・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。また、椙山がディレクターを務めていた音楽番組『ザ・ヒットパレード』にレギュラーのバックバンドとして出演して注目を集める。1966年(昭和41年)、椙山の勧めでオリジナル曲に着手。井上は作曲を担当し、デビュー曲となる英語盤の青い瞳『Blue Eyes』が10万枚、日本語盤の『青い瞳』が50万枚のヒットになった。また、ザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演の前座として出演。その際、彼らはビートルズよりやや低めの位置に設けられたステージで、井上作曲のビートルズ讃歌『ウェルカム・ビートルズ』を演奏した。その後も『青い渚』『何処へ』など順調にヒットを連ねていき、「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時において、数多のグループ・サウンズの中でザ・ワイルドワンズと共にNHKへの出演が許され、NHK紅白歌合戦にこの年から3回連続で出場した。1967年(昭和42年)に発売された『ブルー・シャトウ』は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。また、美空ひばりの希望で『真赤な太陽』のレコーディングに参加。音楽的能力を高く評価され、その後たびたび共演する。 1968年(昭和43年)、エド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米。前奏に箏を配するなど邦楽器を取り入れるアイデアを出し、全米に雅楽の『ブルー・シャトウ』を披露した。このとき欧米のロックやポップスに圧倒された井上は、帰国後すぐにグループの解散を打ち出すつもりだったが、周囲の反対により断念。自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。一方、ムード歌謡的な傾向が強いシングル『さよならのあとで』がヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり、1969年(昭和44年)以降はレコードの売り上げと人気が徐々に下がる。1971年(昭和46年)の『雨の賛美歌』から原点回帰を見せつつ、独自のサウンドを展開して曲を次々と発表。他のGSバンドの解散が続く中でも活動を続けたが、巻き返しはならず、1972年(昭和47年)10月にコロムビアから契約を打ち切られ、これを機に井上はグループから脱退し、作曲家に転身。フィンガー5の『恋のダイヤル6700』『学園天国』を皮切りに、シャネルズ(後のラッツ&スター)『ランナウェイ』『め組のひと』、シブがき隊『NAI・NAI16』『100%…SOかもね!』『ZIG ZAGセブンティーン』、葛城ユキ『ボヘミアン』、郷ひろみ『2億4千万の瞳―エキゾチック・ジャパン』など数多くのヒット曲を送り出し、ヒットメーカーとして大活躍した。また、1976年(昭和51年)に初のソロアルバム『水中花』を発表して以来、作曲の傍らで歌手としても活動を続けた。1981年(昭和56年)から翌年にかけては、大学の同級生であるアニメ監督・富野由悠季が手がけた人気アニメ『機動戦士ガンダム』の劇場版第2作『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』、第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』の主題歌『哀・戦士』『めぐりあい』を自ら歌った。同年、本名の井上忠夫から「井上大輔」に改名。ジャッキー吉川とブルー・コメッツ再結成に参加した時期でもあり、「元GSというレッテルから離れ、一から出直す」という意図もあったとされている。なお「大輔」は、かねてからの愛称「大ちゃん」に由来(ロカビリー時代に内田裕也がとっさに「井上ダイスケ」と誤って紹介したことがきっかけ)している。また、サックス・プレイヤーとして、山下達郎の『悲しみのJODY』『スプリンクラー』などに参加した。1999年(平成11年)、富野と共同でガンダム20周年記念レコード『Reverbration in GUNDAM』をプロデュース。アニメ・特撮では『機甲界ガリアン』『機甲戦記ドラグナー』『光戦隊マスクマン』の主題歌などで印象的な仕事を残した。しかし、私生活においては、20年以上にわたって妻が体調を崩し、入退院を繰り返すといった闘病生活が続いていた。2人に子供がいなかったことから、介護や看病は井上が行っていた。2000年(平成12年)、井上が網膜剥離を発症。3月に手術をするも、術後の経過が思わしくなく、病気がちの妻の看病疲れも重なり、5月30日に東京・六本木の自宅で自殺。午前5時頃、自宅階段の踊り場で首をつって死亡しているのを妻が発見し、「洋子 ごめん もう 治らない」と書かれたメモが見つかった。享年58。その翌2001年(平成13年)9月15日、自宅内で妻の遺体が発見される。首にひもが巻き付いた状態で死後数か月経過しており、その状況から自殺と断定された。


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物哀しいメロディーを得意とし、日本のポップス界に新風を巻き起こした井上大輔。歌謡曲、ポップス、ロック、アニメ、CMソングなど多岐にわたるジャンルでヒット曲を量産し、日本屈指のメロディメーカーとしてその名を轟かせた。井上の場合、当時の作・編曲家の中でも音楽的水準が高く、また卓越した楽器演奏と歌唱力も兼ね備えていたことなど、音楽家としてはあらゆるジャンルを高い完成度でこなすカリスマ的存在であった。そんな彼が、人知れず妻の介護を行い、そして病気を苦にして自ら命を絶ったことは、世間に大きな衝撃を与えた。井上大輔の墓は、神奈川県平塚市の土屋霊園にある。墓は洋型であり、背面に墓誌が刻む。左側面には井上の写真がレリーフとしてはめられ、さらに墓前には訪問者がそれぞれ井上にメッセージを送ることができるノートが、プラスチックのケースの中に用意されていた。

by oku-taka | 2021-10-01 00:12 | 音楽家 | Comments(0)